ここは私の雑記帳です。誰かに語りかけたいとき、誰に書いたらいいのか分からないとき、読んでくれる人がいなくても、どうしても胸に閉じこめておけないことをwebに引っかけておくことにいたしました。雨ざらしになって日に焼けて干からびた、目も当てられない忘れ物。そんな風情でひらひらしているかもしれません。気が向いたら手にとってご覧下さい。
- 1 - もうずいぶん前のことのような気がする。2001年2月、横浜美術館レクチャーホールでのコンサートだった。あの時初めて私はyukoが英語で歌うのを聞いた。その歌は「ローズ」。yukoが歌うのはフランス語か訳詞のシャンソンと決めてかかっていたところがあり、実は彼女がジャンルに拘らない歌い手であることを私は失念していた。彼女の英語は懐かしかった。初めて聴く歌なのに、私は長い間その瞬間を待っていたような気がする。美しい歌だった。 コンサートがはねて「みなとみらい地区」のビストロへ打ち上げに行く道すがら、yukoと腕を組んで歩きながら私はもどかしくてならなかった。何か言ってみたいのに、ことばが見つからない。先ほどまで豪奢な花のようにライトを浴びていたyukoは、ひとたび舞台から降りてくると、瞬間不安そうな表情を浮かべることがある。「ねえ、どうだった?」そう聞きたいような、聞きたくないような、興奮と不安と疲労と安堵の入り交じった顔。二月の夜風は冷たかったのだと思う。けれど寒さは覚えていない。 私は口ごもっていた。歌は良かった。ピアノもベースもアコーディオンも軽快でしかも重厚なサウンドを奏でて、歌い手を際だたせた。「ひらく」というコンサートタイトルに相応しく、詩人から許されて朗読した詩、歌った新作のことばも斬新なものだった。もし感想を言うのなら、そういう一つ一つがみんな大切で、端折れない気もしていたし悉くを語り合いたい気持ちもいっぱいあった。yukoが手の届くところに来た時に捕まえて、聞いてみたいこと話したいことがいつもありすぎる。でも舞台の後のyukoは人の輪の中で揉みくちゃになっているのが常だ。彼女を独占できるわけがない。 プログラムに抄訳は出ていたけれど、「ローズ」の歌詞を私は知らなかった。歌を聴いている時にはフォローできた気がしていたのに、思い出そうとしても繋がらない。だから、ちょっと見栄を張ってyukoには「英語の歌は良いじゃないの。あなたの第二の母国語みたいなものだもの。もっと歌うと良いわよ。イギリス英語のようなアメリカ英語のような、yukoらしい発音だったかも」などと一向訳の分からないことしか言えなかった。面目ない。彼女のフランス語訳詞作業にしばらく関わってきたくせに、英語の歌詞について何も言えないなんて、情けなさ過ぎる。 本当はそれから発憤して、「ローズ」の歌詞を読み直し、yukoにまともな感想を送るつもりだった。だのにどういう運命の悪戯か、私たちは組んだ腕をほどき、別々の波にさらわれるようにして離れた。高い波の向こうで歌い続けているyukoの姿が見え隠れしている。yukoは人々の中で、歌い、ことばを研ぎ、音を求め続けている。私は遠いところからその姿を黙って見つめ、ただ祈っている。 時が過ぎていく。yukoはコンサートやライブを重ね、確かな足取りで歩いている。そんな折り、風の便りに私はyukoが「ローズ」を日本語で歌おうとしているのを知った。そのときの気持ちは何とも言えない。彼女のことだ、聞き手に良く伝わる妥協のない、練り上げられた日本語であの歌を自分のレパートリーとするに違いない。聴いてみたい気もするし、もう一度英語の歌詞で聴きたいような気もする。せめて「ひらく」コンサートの時感じた胸の高鳴りを、今伝えることはできないだろうか。 - 2 -
漸く最後に出てくるたった一言「ローズ」のために、重ねられる幾多のことば。しかも無駄な繰り返しは一つもない。愛の定義に始まり、強調構文を並べ、愛の困難を認めながら、ついに寝かした種が薔薇と花開く時を思い出させる。むしろことばの運びはストイックで脚韻も確かだ。きっちりと引き締まった端正な歌詞と言うべきだろう。奔放に愛を謳歌する南欧風の作品とはずいぶん異なる。さてこれをyukoはどんな日本語にして聴き手に供するのだろう。 yukoにとって英語はほとんど空気のようなものだと思う。フランス語はともかく、この歌は彼女なら英語のまま歌う方が自然なのではないかとすら思う。それを敢えて日本語訳で歌うところに、yukoのこころざしを私は感じる。遠く離れている今だから、余計にそう思うのかもしれない。何度もBette Midlerで聴くと、"The Rose"は私に静かな励ましを伝えてくる。ああこれは横浜でyukoから受け取ったものと同じだと、私は今更に感ずる。つまり、細部のことばがいちいち分からなかったとしてもそんなことは問題にならないほどの歌の力とでも言おうか。歌詞とメロディの調和が醸し出す、音楽の喜びに溢れた曲だ。 もし私がこの歌の意味を良く知っていたなら、あの晩yukoにどんな批評をしていただろう。別の歌手と比べただろうか。私は自分なりにこの歌を幾度も反芻している。一言も漏らすまいとしたらどんな風になるだろうか。
quoted from BetteLyrics.com もちろんこんな直訳は歌にならない。もしも歌うなら枝葉は要らない。思い切って刈り込むとしたらどうなるだろう。
「薔薇(ローズ)」
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横浜で聴いた冬の「ローズ」。何故あのときあんなに心が温かくなったのか、今なら分かる。yukoが舞台で大切に一言一言発したことばは、種だったのだ。あれからの私の道は険しかった。未だ光は見えない。でも、「思い出して」と歌うyukoの声がどこかから聞こえる。いつか種は花開くのだと。陽光に包まれたなら、凛として薔薇になるのだと。だから雪の重みに命が埋もれて消えることなどないと、艶やかにしっとりと歌い上げる声が私には聞こえてくる。いつかどこかの舞台で、yukoの歌う「ローズ」が聴きたい。
- 1 - 「一月は行き、二月は逃げ、三月は去る」と耳で習い覚えたのは何時の頃だろう。この文句は嘘ではないと思う。正月が明けたとたんに時は駆け出す。人々は厳冬をやり過ごして、ひたすら花の季節を待ち望む。 私にとって三月がことさら気にかかるのは、この月に父を亡くしたからだと思う。いい年をした人間が「父を亡くした」と言っても、それは特別のことではない。産んでくれたものが先に行くのは必定で、「子どもを亡くした」という逆縁につきまとう悲壮感がないのは当然だ。だが、それは一般論。個別の親子にとって、死別は突然であれ予想できたことであれ、格別なものだ。 三月に父が死ぬとは思っていなかった。自死でもない限り人が死ぬ時を選べるわけがないのだけれど、もう少し持ちこたえるのではないかと思っていた。前年の十二月初めに血痰が出た。あるいはという予想はしながらも検査待ちで年を越し、築地のガンセンターで肺ガンの確定診断を受けたのが一月。それから一ヶ月近くじりじりと自宅で入院の順番を待ち、病院に入れたのは二月の初旬。衰弱が激しかったから、家族は自宅で好きに過ごしたらと勧めたが、父は望みを捨てなかった。現代の最先端医療の恩恵で、幾ばくかでも延命が図れるのならただ死を待つより、よく生きることになると信じて疑わなかった。 だが最先端医療の得意とすることは、信憑性の高い検査数値をはじき出すことだけである。内視鏡検査、レントゲン、CTスキャン、喀痰検査、血液検査など、あらゆる角度からのチェックの出した結果は「最終段階に近い肺ガン。手術、X線治療、抗ガン剤、どのような処置も既に無駄である。」との明快なものであった。ガンセンターは直る見込みのない患者を収容しておく場所ではない。医師は家族の通いやすいところへの転院を勧めた。「紹介状ならいくらでも書きます。」と言うのがせいぜい。それでは、と八方手を尽くしたら清瀬の救世軍ホスピスが、父を入院の優先順位筆頭者と認め、寝台車での転院となった。母も共にに泊まり込める静かな病室が与えられたものの、一息ついたところで二週間目に父は死んだ。弥生の節句翌未明のこと。 父の葬儀は弟の誕生日。血痰を出したのが私の誕生日だったし、覚えやすい経過を残してくれたものだと思う。雛祭りの夜には、まさか次の日が命日として記憶されることになるとも思わず、家族一同孫子がうち揃い、父の病床を取り巻いて家族にはよく通じる他愛のない冗談を言い合い、リハビリに歩行訓練をしてみたいと言い出した父を制止しながら、まだ笑いが尽きなかった。「また来るから、お休みなさい」と呼びかけると、父は笑顔で片手を上げた。笑顔は父の最後の贈り物だと思うことにしている。ドラマでよく見る臨終の風景は無かった。翌朝傍らの母が覗き込んだときには、もう息をしていなかったという。電話で呼ばれて駆けつけると、母は泣きもせず病室の片づけをしていた。 私が呆気にとられているところへ、ホスピスのチャプレンが現れて、三人だけのミサが行われた。この成り行きも意外だった。父は在家の仏教徒であり、生前に得度を受け戒名まで持っていた。それが息を引き取って間もなく、体温の残るうちにキリスト教の祈りで昇天を認められることになろうとは。だが、母にも私にも異存はなかった。現代医療が拒否した病人を迎え入れたのがクリスチャンであることは確かなのだ。二週間、父は平安を与えられた。治療はせず、苦しみを緩和することだけに精力を注いだホスピスの人々に私達は感謝こそすれ、宗教の違いに異を唱える気持ちはなかった。雑木林に薄日が差し始める頃、父は清められて黄泉の国に旅立った。
衰えたとはいえ、意識のはっきりしている父に深刻な病状を悟られぬよう、弟の連れ合いである義妹と共にホスピスを探して駆け回った日のことも、克明に覚えている。小金井のホスピスで有名な「桜町病院」では、癌の末期医療を受けることを本人が自覚していなくてはならないと言われ、しかも長い入院待機患者の末尾に名を連ねるのでは、とても間に合いそうもないと諦めるほか無かった。だから救世軍清瀬病院が翌日にも入院を、と快諾してくれたときには有り難かった。救世軍と言えば年末の社会鍋の前で聖歌を歌う制服姿の年輩者しかイメージできない自分が恥ずかしかった。こちらはなにも知らないのに、大病院を治癒の見込み無しと追い出される患者に大層親切であると、不思議な気分もしていた。父は医療保険に入っていたから、莫大な入院費用を請求されるのではないかと案ずる必要もなかったし、第一母が簡易ベッドを与えられて泊まり込めるのが何よりだった。長年連れ添った夫婦が最後の日々を共にできるのはこの世の人々のなし得る、せめてもの計らいではないだろうか。 母に父の病状の実際を言わずにいたため、生来が呑気な母は父の末期についてそれほど悲観していなかった。一か月も二か月も旅行気分で父と同室に暮らすつもりだったらしい。夕方になると、洗面器を抱えて近所の銭湯に出かけ、コンビニストアでちょっとした買い物をしてくるのが日課になった。弟の家族と私が交替で、着替えや洗濯物を運んだ。妹も時間をひねり出しては都心から駆けつけた。父は既に進行した病巣のために声を失い、思うような意志疎通が出来なくなっていったけれど、そこが居心地のよい場所であることを認め、医師や看護婦の指示によく従っていた。 病気についての言及は、ガンセンターを出る前の日に「齢74才か。まあ、よい人生だったと言うべきだろうな。」と私に向かってはっきりと言ったのが最後だった。覚悟は定まっていたと見える。この入院の直前まで、現役で小さな会社の指揮を執っていた。勇退も、老後の余生も、父にはなかった。仕事の始末をつけ、母に残すべきものは残し、後を息子に託してきれいさっぱりとこの世におさらばした感がある。しかし、本人もまだ幾ばくかは感慨に耽る時間が残されていると思っていたのではないだろうか。ホスピス滞在二週間というのは、最短コースである。 ホスピスがどんなところかについては、私も全く知らぬではなかった。父が癌にかかっていると分かって以来読みあさった本の中には、『病院で死ぬこと』という、桜町病院長の手記も入っていた。丸山ワクチンについても数冊読み、実際日本医大にワクチンを受け取りに行っている。ホスピスの医師の承諾が取れれば、頒布して貰えるのだ。清瀬病院の医師は無駄だとは言わず、「お嬢さんが貰ってきてくれたワクチンを打ちますよ。効くといいですね。」と父に注射した。それも僅か数回のことで終わったのではあったが。 つまり、ホスピスというところは死を忌避しない。直ぐそばまで死が近付いていることを認めてしまう。死はタブーでなくなったとき、親しみ深いものになる。誰もが生まれてきたと同様、誰もが死ぬ。たまたま死の姿をはっきりと身近に感じることを運命付けられた者に対して、ホスピスは死を痛いもの、苦しいもの、怖いものとしてではなく、いずれ生者の全てが受け入れるべきものとして、共に認めようという姿勢に貫かれている。だから緩和医療のノウハウに優れている。痛いといえば痛みを緩めてくれるし、苦しいといえば苦しまずに済む薬も処方してくれる。殉教者のように痛みに耐えよなどと言うスタッフはいない。その代わり、ホスピスは死の一里塚であることをも認めなくてはならない。再び元気になって社会復帰できるという幻想を与えられることはない。死を受け入れるものにとってのみ、ホスピスは福音となる。
私達が食事を済ませたのを見計らうように、婦人達はにこやかな顔をこちらに向けて、「ご一緒に如何ですか。」と誘いかけてきた。母と私は当惑しつつも、断る術を持たなかった。その人々の持っている分厚い歌集を開いて、どれでも好きな曲にいたしましょうと言う。母と私は顔を見合わせた。別室では父が待っている。危篤に近い病人をおいて、歌など歌っていて良いものか。しかし、歌は抗いがたい魅力だった。父の病気が分かって以来、声を立てて歌うなどと言う機会はなかったし、音楽を楽しもうなどと言う気も失せていた。病気は人をしかつめらしくする。 婦人達には屈託がない。「音楽療法をご存知ですか。病気の時に歌うのはとても良いのです。それに、看病なさる方にも。」と言う。病人を差し置いて歌に興じるなどとは、と言った謹厳さは微塵もない。特にハープを弾く人は額の明るい、にこやかな女性だった。大きからず小さからぬ音がハープから流れ出す。ギターのカジュアルな魅力とも、アコーディオンの大仰さとも違う、洗練された美しさが漂っていた。私達はハープの音に眩惑されたのかも知れない。「それでは」と身を乗り出して、母と共に私が選んだのは、『早春賦』であった。「いい曲ですわね。」とハープ奏者。他の面々共々、私達は譜面を見ながら三番まで歌った。途中で私はこみ上げてくるものがあり、涙声になった。涙が出て仕方がなかったけれど、誰も歌を中断せず、終いまで歌いきった。窓の外には淡雪が枯れた庭に降りしきっていた。 歌の後で私達はさりげなく別れの言葉を交わして、その婦人達とはそれきりもう会わなかった。後から聞くところによると、彼女らは「音楽ボランティア」で、ホスピスや病院を慰問して歩いているらしい。慰問する相手は病人に限らない。私達のような介護する側をも慰謝するのが勤めと心得ている模様だ。そのことが有ってから、益々私はホスピスの役割に敏感になった。病む人は確かに助けを求めている。だが、介護する者もまた助けを求めている。親しい者が病に倒れ、死が近付いているとしたら、死を怖れるのは死に行く者だけではない。親しい者を死に奪われる日の近い人間は別れて、残される痛みを目の前に突きつけられている。 病む者と介護する者が同じ苦しみで強く結ばれることも稀にはあるだろう。だが、より多くの場合、見送る者には寄る辺がない。何時かは自分もと思いつつ、死が何時訪れるのかは知りようもない。そして介護は果てしのない労役に思えることがままある。愛しているとかいないとかとは別次元の苦役を介護者は負う。そのような立場にある者に、全くの他者が与えうるものなどあるだろうか。むろん、金子である場合も大いにある。だが、心についてはどうか。死に行く者を看取る者に対して、手を延べることなど、出来はしない。死を追い払うことが出来ない以上は。そんなときの音楽。ささやかな歌。名も伝え合わぬ人々。歌が私の抑えていた涙を引き出し、声を上げることを可能にし、一時死と対峙する緊張から解放してくれた。それだけのことなのに、私には忘れられない。あの不思議な電子ハープの音色が。
父を失うことがはっきりしてから、この世にはどう足掻いても引き留めようのないものがあるのだと知り、勤め帰りの駅のホームで、電車を待ちながらあたり憚らず涙を流した早春のことが思い出されて、私は高ぶる感情を抑えられなくなる。親を見送るのなんか、当たり前のことではないかと思っても、自分の親はどこまでも親なのである。幾つになろうが、何をしていようが、そのことに変わりはない。「音楽ボランティア」の人たちは良いことをしてくれたのだろうか、それとも余計なことをしてくれたのだろうか。 かくて、三月は去る。もはや「早春」と呼ぶには相応しくない時期かも知れない。何時かは父の生涯について何らかのことをしたためようと思っていた。だが、日々の暮らしは私を走らせるばかりで、死んだ者のために費やす時を残してくれない。それが言い訳に過ぎないこともまた私は承知している。去る者日々に疎し、でもある。実父とはいえ、死ねば遠ざかる。いないことが当たり前になり、死んだ者のために流す涙もなくなる。 ただ、音楽は忘れない。『早春賦』を歌おうとするたびに、私は父を失いかけていたあの春浅い日の私に幾度でも引き戻される。そしてその感覚は、甘い感傷だけではなく「死を忘れるな」という己自身に突きつけられた刃のような問いかけでもある。何時かはおまえも死に、忘れられて行くのだよという厳然たる事実の再確認。そんなことを私に感じさせる父は、死して尚父であり続ける。 * * *
"Early Spring Song" stuck
in my throat
雛の夜を永訣の時と為してより父の微笑み浮かぶ雪洞 Since the Feast of Dolls' night
turned to be the time for farewell
やわらかに雨降る夜は懐かしく貧しきケースの雛壇覗く Hearing the soft rain at night
Yukoと私が1999年夏にウェッブ上でe-mailによる『公開往復書簡』を試みた経緯はこのページの「続・変身」に書いた。「橋の上」を歌にしようというアイディアはYukoのメールに端を発する。 私にあなたの詩を歌わせてよ。私達は二人とも若い頃書く事に興味を持っていた。そして今、あなたは書き続け私は歌い始めた。あなたの詩を私が聴衆の前で歌うとしたらそれは、私の手紙をあなたの料理でHPに載せるのに似てはいないだろうか。ふたりで「企む」ことのひとつにいかが。読み手あってのHP。聴き手あっての歌。手始めに『川風』にある「橋の上」はどう?あれは歌になってるよね。あれを読んだ時の印象はあれ、中島みゆきの歌かななんて・・・曲は何人かの候補者に書いてもらえばいい。なぜかいい予感がしない?ではまた。
from Yuko (p.9 8/9)
Yukoが指摘するとおり、歌われることを目的とせずに書かれた詩はそのまでは旋律に乗らない。原詩自体に先ずもって型が無く、洗練からは程遠い。それを歌のためのことばにするには「詩から詞へ」という転換がいる。さらに歌詞には聴き手の心に強く訴えかけるルフラン(繰り返し部分)が不可欠であり、旋律と歌詞が凝縮された形でその歌のメッセージを伝える、俗に「さび」と言われるクライマックスが終盤近くに入る。となると、原詩の茫漠とした言葉の羅列はひとまず解体され、キーワードを拾い出して再構成されなくてはならない。与えられたメロディーにあわせて原詩を整形する仕事は、歌い手のYukoが担当することになった。 Yukoは楽曲の旋律構成に添って、原詩を大胆に切り捌いた。原詩の書き手にはとても出来ない荒技と言える。なぜならこれは余分なことばを切り捨てる作業だからだ。未練がましいことは言っていられない。「はしょったところが多すぎると思うかもしれませんが、伝えることは伝えているのではないかと・・・」というYukoのメールに私は半ば唖然とし、半ば感心した。彼女の言うことは正しい。示された歌詞の試案は確かに原詩とは別物になっている。しかし必要最低条件は満たしている。音楽が分からない者には出来ない作業だった。この段階で歌詞の原型が出来た。 しかし、ここからが思いの外長かった。意味の上で理屈が通っていたとしても、あるいはイメージは悪くないものでも、音にのせるとすわりの悪いことば、聞き取りにくいことばというものがある。旋律の加減で余計なアクセントが付いてしまったり、逆にインパクトの失せてしまうことばも出てくる。さらには同じメッセージを伝えるために、すっかり言い換えなくてはならないフレーズも見つかる。一人のシンガーソングライターが書くのなら旋律とことばを自分で調整しながら融合させていくであろうところを、歌い手と作詞、作曲が全部違うために作業は錯綜する。それぞれが自分の担当部分に思い入れを持っていて、何とかそれを曲に反映させようとするのだから。 最終決定は編曲者と歌手に委ねられた。だが歌詞については最終稿が仕上がるまで、Yukoと私の間を頻繁にメールが行き交った。歌詞の調整はメロディー抜きにはあり得ない。メールだけではどうしようもないので、カセットテープが郵便で届くこと数回。私はテープで繰り返し「橋の上」のピアノ演奏を聴き、Yukoの歌を聴き、音符をたどった。音とことばの関係について、来る日も来る日も思いをめぐらせていたものだ。不思議なことに、ある人はことばで世界を捉え、ある人は色や形で捉え、またある人は音で捉えるものらしい。そういえば数式や記号で宇宙を記述する人もいる。音を伴ったことばには命の律動がある。静的な表記文字だけでことばを読み書きしているときには気付かなかった意味が浮かび上がって来る。 かくて原詩の枝葉を切り落とし、装飾を剥ぎ取り、贅肉を削いだ結果、歌詞バージョンの「橋の上」が出来た。たとえばハンガーに掛けられた洋服を想像するのがいいかもしれない。素材もデザインも色もシンプルそのもの。ところがひとたび生きた肉体がそれをまとうと、服はスウィングし始める。歌詞とはどうやらそんなものらしい。Yukoが歌う「橋の上」はこのように定まった。
静謐といってよい作品。あくまでも穏やかで緩やかで大袈裟なところは一つもない。だが平板ではない。精緻なピアノ演奏と艶やかな声が絡み合うときに、官能的な情動すらかすかに揺らめく。文字で読んでも決して伝わらないことばの持つ響き。私は原詩を書いたときの心の動きをはっきりと思い出す。僅か7連28行の歌詞の背景を書き留めたら、それはこの歌を汚すことになるだろうか。
やっと二十歳になった頃には、TOKYOのカルチェ・ラタンと呼ばれるこの界隈に出かけてくるだけで胸がときめいた。アテネ・フランセに通い、古いヨーロッパ映画を上演するシネ・クラブの会員になった。お茶の水駅から駿河台下まで歩けば、神田の古本屋街。財布は空でも、見るだけならただ。小川町あたりから九段下まで一軒一軒覗いて歩いた。当時は中央大学のメインキャンパスもあった。中大生協でオリベッティのタイプライターを買い、学生のたむろす「斉藤コーヒー店」で一休み。今ではもうどちらも街から消えてしまった。明治大学前はいつ通っても、タテカンだらけだった。学生活動家特有の文字で書き殴られた過激な文句。覆面した学生のアジテーション。あそこには最後の最後まで政治の季節がくすぶっていた。 だが私の最大の関心は本郷にあった。本郷にある大学の院生に私は恋をしていた。手紙を書いた。電話もした。話題に上った本は片端から読んだ。出会えそうな集会にもデモにも行った。ごくたまに会えたときには一言も聞き漏らすまいとしたものだ。しかし無念なことに片思いだった。どうあがいてもどんなに背伸びしても、相手はびくともしなかった。叶わぬことが分かっていながらどれほど無駄な努力をしただろう。お茶の水から本郷へ。会えるあてはないのに、幾度さまよい歩いたことか。おかげであのあたりの地理にはめっぽう詳しくなった。 私が初めて仕事にありついたのもお茶の水だった。駅前にそびえる東京医科歯科大学の付属学校。歯科衛生士、歯科技工士、臨床検査技師、看護婦の卵たちに一般教養の英語を教える非常勤講師。私より年上の学生もいて、新米教師は教壇でしばしば立ち往生。昼休みには大学構内を抜け出して、湯島聖堂の石段に座ったり神田明神の境内をうろついて病院の匂いを逃れようとした。毎週、朝に夕に神田川を眺められるのが救いだったように思う。非常勤稼業は果てしなく続いた。それでも私は夢を見ていた。いつかどこかで何かが始まる。きっと誰かにめぐり会うはず、と。何の根拠もなかったけれど、可能性だけが財産だった。 それから時代はめぐった。卒業論文と修士論文を叩き出した、あの手動タイプライターは今どこで眠っているのだろう。ブラザーの電子タイプライター、キャノンのワープロへと乗り換えて、それからあとはパソコンだ。思い出に浸る暇もなく駆け通してきた。気が付けばまた私は橋の上にいる。叶った夢もあるし、叶わなかった夢もある。ただ、私が一つだけ勘違いしていたことがあるのに今気付く。私は若い頃、年を取れば胸を焦がすことも憧れることも、夢見ることも無くなるように思っていた。年を取るのは双六の目を進んでいくようなものではないかと思っていた。不遜にも中年、老年の女たちを見て、何が楽しくて生きているのかといぶかしがっていたほどだ。しかし、橋の上に佇む自分の心を覗いてみれば、二十歳の頃と大した違いはない。驚いてしまう。 肉体は老いてゆく。経験は積み重なってゆく。しがらみは増えてゆく。だが上澄みの底深く、変わらないものもある。愚かさもそのままに、時の経過に耐えるもの、それは命を慈しむ心ではないかと思う。それを芯にして、人は幾多のものごとを感じる。人は命を愛することを愛する。そのゆえに、人生は美しいと感じる。受け入れられるかどうかにはお構いなく、人は命を愛さずにいられない。そして命は一つではない。 川風に慰撫され、川面の光に励まされ、我に返った私はカメラを構える。時を封じ込めることなど出来ないと分かってはいても、留めておきたい瞬間というのはあるものだ。何人もの歌い手が歌にしたこの風景。聖橋、神田川、その傍らを走る色鮮やかな中央線、総武線、地下鉄丸の内線、そして水に映る街。都会の片隅にぽっかり空いた、風の通り道。
ライブハウスのカウンター席に座って、私は息をひそめていた。ピアノの前奏が始まる。軽やかに流れ出す音は、聴く者の頑なな意識を溶かしてしまう。心が澄んで開かれたところへ、歌が流れ込む。知り尽くしているはずのことばなのに、それは初めて聴く曲だった。ピアノと声は一つに交わり、清冽な風を心に吹き込む。たゆたう思いを引き寄せて、静かに確かに、深いところへ運んでゆく。音楽は聴き手の全身に作用する。繰り返される旋律と、かすかに変化してゆくことば。胸に広がる懐かしくやわらかな思い。溢れてくるのは涙ではなく微笑み。そう、そのようにして人は時空を越え、橋の上で風に包まれる。そう、とてもいい。とてもいい。 短い曲だ。闇の中から沸き上がる拍手。深々と頭を下げるYuko。私は体の力がすっかり抜けてしまった。初演に際して、Yukoは居合わせた作曲者と作詞者を紹介する。高野氏は起立して合掌スタイルでお辞儀した。私は座ったままにっこりするのが精一杯。数々のシャンソンの名曲に挟まって、オリジナル曲「橋の上」は慎ましやかな小品に違いない。だが、優れたピアノ演奏と丁寧な歌唱のハーモニーで、その曲は珠玉の一品に聞こえた。ことばの最上の意味で「佳作」と呼んでもいいだろう。 あの夏の『往復書簡』がもたらしたものは、果てしもないお喋りの記録だけではなかったようだ。メール交換を通じて別々の場所で異なる暮らしをする者同士が、緊密な対話を重ねて一つの曲を合作した。それは心楽しい経験になった。だが、同時に忘れがたいのは、「橋の上」へと私を誘った名付け得ぬ衝動なのである。ことばを紡ぐインスピレーションョンを与えてくれた心ざわめく命の在処に、私は遠く遙かな思いをいたす。 - 1 - 初夏、私は「変身」という文章をここに書いた。二十歳の頃知り合い、つかず離れず今日まで来た友人が突如新境地を拓いたことへの賛嘆の念に突き動かされて、始めは彼女への私信程度のつもりだった。少しでもリアクションがあれば面白いだろうと、些か挑発的な書き方をしたように思う。多くの場合、何を書いてもこのような個人ホームページには「読者」からの反応など期待できない。ところが、「変身」の主人公は予想以上に敏感な反応を示し、しかもその文章を知る限りの関係者に宣伝してくれた。それが契機となって「変身」は副産物を生んだ。
九月始めのある日、私はJR中央線国立駅のロータリーで、背伸びしながら一台の車の到着を待っていた。誰かを待つのにこんなに胸が高鳴り、不安と期待でいっぱいになるなんて、全く久しぶりのことだ。国立駅前は都内でも格段に豊かな空間を誇り、まっすぐに走る幅50メートルの道路は、花見の季節には桜吹雪でえもいわれぬ美しさになる。夏には緑陰が涼しく、ストリートミュージシャンがギターをかき鳴らしていたり、手作りのアクセサリーを売る人、自分の絵を並べる人も出て、独特の雰囲気がある。久しぶりの再会にこの街を選んだのは、次に会えるのがいつになるか分からない相手への私なりの思い入れでもあり、演出でもあった。 少し早めに着いて、既に駐車場の場所を確認し、昼食をとる店に見当ををつけ、その後は老舗の「ロージナ茶房」と決めてある。歩く距離も確認済み。それではまるで恋人を待つうぶな男のようではないかと人は思うだろう。どう思われようが、そのくらい周到に準備してYukoを待ち構え、会ったとたんに話し始めたととしても、別れを告げる頃までに話したかった半分も口に出来ないことを私は長年の経験から熟知している。彼女の饒舌に対抗するには、そのくらいの意気込みでかからないと、ただただ圧倒されて終わるのだ。それではこちらも気が済まない。今年の夏は特に。あの『往復書簡』は一体何だったのかはっきりさせずにおくものか、という気持ちで私は手ぐすね引いて待っていた。 YukoのBMWがロータリーに入って来たのを見つけると、私は助手席に滑り込み挨拶抜きで駐車場への道を指示した。
無事駐車を済ませると、私たちは街に歩み出した。いつものように私は右腕を彼女に貸し、二人でゆっくりと歩道をたどる。既に『往復書簡』で語られた、80を過ぎても周りの怪訝な目には頓着せず喋り続ける老女たちの姿を予行演習するが如き我ら。思った通り、イギリスから帰ってきたばかりの彼女にも、国立の街の雰囲気は気に入ったらしい。裏通りに、売り手の姿のない手作りアクセサリーが広げてあるのを「これ、いいね」と物色する。でしょ、街は舞台よ。あなたによく似合うわ、と私は密かに思う。 いざ座って話し始めればもう夢中。私たちの話に脈絡などありはしない。先ほど道端で見たアクセサリー屋と同じ。得体の知れない素材を自在に曲げたり延ばしたり、彩色したりいぶしたり。一見がらくたをぶちまけたようでいて、一つ一つには故事来歴がある。手当たり次第に目に付いたものを取っては次へと話は進む。私は大笑いもするし苦笑もする。変わらない、本当に変わらない。人の度肝を抜く「変身」を遂げ続けるYukoだけれど、その奥にある本性には些かの変節もない。 それはこの夏『往復書簡』を交わしてみてよく分かった。彼女のパワーがどこから来るのか、彼女の才能と魅力、そして独特の個性を育んだものの在処に私はあらためて思いをいたす。彼女に惹かれる人が多い訳を考える。ほとばしる精気と鋭いまなざし。どんな話題も隔てなく、独特の語彙でいくらでも語る。目の前の友人が私をよく見る厳しい女であることにも変わりない。彼女の前では、私の虚飾部分も剥ぎ落とされる。数時間のうちに『往復書簡』の何倍が語り合われたことか。私の段取りなど彼女にかかれば屁でもない。竜巻のようなそのお喋り。この迫力で彼女は歌うのか。
『往復書簡』の構想を私はかなり以前から持っていた。元々は全く別の相手と試みるアイディアがあったのだけれども、様々な事情がそれを可能にしなかった。個人メールに余りにも多岐にわたることを際限なく書き送る私に対して、ある交信相手は、「書きたいことが沢山あるのは分かるし、一人で読むには惜しい内容のこともある。しかし送られた者には重すぎる。いっそウェッブページに公開したらどうか」と率直な感想を述べてくれた。今ほどメールが人々の間を頻繁に行き来していなかった頃のこと。自分にとってさして必然性のない事柄を延々と書いてある私からの長いメールを受け取った相手にとって、それは「迷惑メール」以外の何物でもなかったろう。
最初Yukoはパソコンによる文字交信に懐疑的だった。人と人は直接会って生身をぶつけ合ってこそコミュニケートできるものだという信念を持つ彼女がパソコンに振り向いたのは、コミュニケートしたい相手がメールを好む人物だったからに他ならない。そのことは『往復書簡』の中でも述べられている。都合のよいことに、そう感じ始めた頃彼女は恒例のOxford行きの時期を迎えていた。遠隔地にいてこそメールは威力を発揮する。Yukoと私の交信も始めはポツリポツリとしたものだった。横浜で音楽活動に精を出しているときのYukoは、昼も夜もなく人と会い、語らい、飲み、そして歌う。パソコンの前にじっと座ってキーを打つなどという暇もあらばこそ。 ところがイギリスでの生活は一転して、全身これ暇を絵に描いたようなものとなる。あの国であくせくしている人がいたら物笑いの種にこそなれ、誰も感心してくれやしない。幸か不幸か彼女を迎えるステージも未だイギリスにはないらしい。もしこれが連日快晴の夏であったなら、Yukoは車を飛ばしてどこへでも出かけっぱなしだったろう。ところが正に「天」は逆さまの寒い夏をイギリスに下した。流石のYukoも蟄居するしかなかった。そして彼女の目の前にはパソコンがあった。「あのお喋りがメールを始めたらなまじなことでは終わらない。」と私が数ヶ月前に書いた予想的中。ダム決壊の契機は、彼女の敬愛するピアニストのHさんが、「Yukoさんとの往復書簡公開に期待しています」とさりげなく私に書き送ってくれた一行にある。私たちはこの提言に飛びついた。書きも書いたり。私たちの交信は、そのHさんにさえ「お二人のあまりの饒舌さに、ただただびっくり」と言われる様なものとなってしまった。元々手紙好きの女たちにとってメールは福音か、あるいは麻薬のどちらかだ。
何かに目覚めると一途なのはYukoの本性。徹底攻略する。水泳を始めたときも、運転を習ったときも、そしておそらくシャンソンを始めたときも。初めて出会った頃、彼女は両腕で杖をつき、ひたすら歩くことに集中して前をカッと睨み邪魔者は吹き飛ばす勢いの形相だった。まだ彼女の頬は田園で育った人特有の林檎色をしていた。彼女は幼い頃にポリオを患ったのだという。大学二年の時、よい手術をする医師がいるという知らせを受けてYukoは入院を決意した。長い療養生活を経てキャンパスに戻って暫くは、松葉杖が彼女を支えていた。彼女は人知れずリハビリを続け、ついに全ての杖から解放される時が来た。
手紙好きである前に、Yukoには語りたいことがいつも山のようにあった。学生時代、「『健全な肉体に健全な精神は宿る』という格言は大嫌い。それじゃなに、私に健全な精神がないとでも言うの!」と憤っていたYukoは、ぼんやり暮らす者たちに、与えられた境遇を生かすも殺すも己の意思次第であることを身をもって知らしめたと私は記憶している。その強靱な精神の故に、私はYukoのハンディをハンディだと思わずに来たけれど、肉体上の障害を越えるために彼女が払った努力を過小評価することも無視することも出来はしない。今ステージに立ち、その歌の故に愛されているYukoは、努力の跡を人に見せないし、誰もがYukoをYukoとして受け入れ、彼女のアイデンティティーに障害を重ねることはないけれど。 「野口整体を始めてから調子がいいのよ。邪気を吐いて気を通すの。歌う前に気を入れるのも同じやり方。歌うために、全身のコンディションを整えるんだ。ハワイで転んで骨にひびが入ったときも大事にならずに済んだのは、整体のおかげだと思う。もし整体をしていなかったら、ステージでずっと立っていることなんか出来ないかもしれない。」
私には何の知識もない整体と歌の関係を蕩々と語るYuko。目眩く思いで彼女をあらためて眺めると、当たり前に立ち、当たり前に歩くことに人の何倍もの努力を払った事実をはっきり認めないではいられないい。よくぞ、と私は深く頷く。
「ロージナ茶房」でコーヒーをすすりながらYukoは、真面目な顔でこう言った。 その言説に翳りはない。彼女の生きる意志が、内側に燃える炎となって光を放つ。それは中途半端に近づく者を火傷させるかも知れないし、傷ついた者を温めるのかも知れない。別の炎を持つ者とは激しく呼応し照らし合い、ステージの上で燃焼するときにはなにものかに取り憑かれたような力で人々を惹き付ける。そのことを指して「生き急いでいるようだ」という人もいる。だが、Yukoを見ていると、彼女は何物かに生かされているのではないかと思えてならない。彼女がそこにいることで人は光を浴びるのだ。久しぶりに対座して私が感じたのはそういう思いだった。
私たちは飽きることなくこの夏メールを書いた。『往復書簡』の中でYukoはしばしば死んだ人のことに触れている。一つ一つの死が彼女にとってどんなに重いものだったかよく分かる。またYukoはあけすけに愛や性のことを語る。大らかとはこのことだ。それなのに、交信相手の私は公開を意識して、あちらを削りこちらを言い換え、いかにも学校教師のような編集をしてしまった。それを私たちは「バグ取り」と呼んだ訳だが、敏感な読者はその取られたバグの部分をこそ読んでみたかったと書き送ってくれた。 そのような感想を読むにつけ、私はものを書くことの誘惑と罪について考える。人が持っている表現への欲求にどのようなフォームを与えるか、どこでことばを押しとどめるか、何を捨てて何を取るか。「公開」と銘打ったとき、既に私たちは書く内容を取捨選択している。読み手を意識し、面白い読み物を提供しようとするサービス精神を採択している。だから、最後の方では互いに向かって書くと同時に、読者と共有できる話題に傾く傾向が出てきた。ところがよくしたもので、私たちはそんな小手先の作為を覆す「事故」に見舞われた。Yukoの加入しているプロバイダーがある日を期して海外からのメール送信に規制をかけ始めたのだ。YukoはOxfordから通常の手順ではメールを送信できなくなった。こればかりは「意志の力」だけではどうにもならない。交信相手の私もとんと機械に弱いと来ているから、お手上げ状態。 『公開書簡』も最後は正にオペレッタの大団円よろしく、「送信不能」を訴えるYukoのゲストブックへの書き込みがそのまま収録されたり、いくつかの解決方法が指南されたり、「読者の感想特集」が公開されたり、帰国報告の「掲示板」への書き込みが張り付けられたり、何でもありの雪崩状態となった。それにしても、と私は思う。Yukoの行くところ必ず何か事件が起こり、人々はそれに巻き込まれ、大騒ぎとなる。けれどいつしか人は彼女の発散するエネルギーを快く享受して愉快な思いをする。Yukoは本気で憤り、怒り、闘うのだが、人はそれに手を貸すことで何かを受け取る。
今も彼女のパソコンは液晶画面が故障して修理中。Yukoはパソコンの使えない生活を嘆いている。そのことを電話してきたとき、
あの日、闇の中を遠ざかっていくYukoの車のテールライトを見送った後、ゆっくり家路をたどりながら私は心を鎮めるのに手間取った。持続する情熱。たゆみない挑戦。仮借無い批判精神。何物かに奪われた肉体の自由を、彼女は内在する可能性を徹底的に掘り起こすことで克服してきた。そして、その上に誰にも真似の出来ない創造性を開花させつつある。花開く時を人は決められない。若さの特権に胡座をかいてはならない。また、加齢の事実に屈服するのも言い訳にならない。男だから、女だからと後込みするなど言語道断。人はいくつになっても、どんなときにも自らを内側から造り替えてゆけるものらしい。歌に目覚めたYukoが、私に書く力を鍛えよと励ます。共に変身していこうと、80過ぎまで生きる気でいる呑気な我らは本気で約束したようだ。 彼女は二十数年来私の最大のライバルである。これほど人の闘志をかき立てる女もあまりいない。あくの強さはメガトン級。押しの強さは百万馬力。声の大きさは私の三倍強。体重はどっこいどっこい。入学二年目の女子大のキャンパスで出会って互いに「大きな顔したよく喋るのがいる」と相手を意識したのが始まりで、ある日彼女は図々しくも私に「これから授業さぼって映画見に行くから、後でノート見せてくれる?」と話しかけてきた。私たちのフランス語中級ではフローベールの中編小説を読んでいた。結構予習に手間取る授業である。担当はボーヴォァールの紹介・翻訳で有名な二宮フサ先生。私はフランス流マダムの薫陶に触れる好機に胸ときめかせながらいつもかぶりつきで聴講していた。ところが我が友となるYukoは、そんなことは意に介さず晩年のプレスリー出演の映画Elvis on Stageに首ったけ。しかも既にもう何度か見ているのを、また見に行かずにいられないと言うのだ。中年のプレスリーはとても太っていて、私は「彼ってもの凄くセクシーだと思わない?」と聞かれても、「全然。」と応えるしかなかった。私は私で相当年を食ったAlain Delonが好きだった。言えば「頭おかしいんじゃないの、あんなやくざみたいなおっさん」とこき下ろされるのが落ちだったから黙っていたけれど。私は知り合いになるきっかけが向こうから押しかけてきたのでこれ幸い、「良いわよ」とにこやかに応じた。大体が私は人に何か頼まれて「イヤよ」とは滅多に言えない気弱な性格なのである。その後彼女の押しの強さと私のお人好しとが、斯くも長くタッグマッチを組むことになろうとは予測不可能だった。 辞書と首っ引きで丹念に予習してフランス語の授業を受け、課外では別の友人達とフランス人留学生から会話を習い、アルバイト代をはたいてアテネフランセにまで通ってフランス語に惚れ込んでいた私は、しかしその後あちこちで道に迷った挙げ句、今ではもうまともに動詞変化一つ言えなくなっている。ところがなんとしたことか、私のノートのおかげで辛くもフランス語の及第点を取った彼女が今、シャンソン歌手になったのである。しかも「良い日本語訳がない歌は、フランス語で歌うことにしてるの」と言うではないか。苦節二十数年をその道一筋に歩んだ挙げ句歌手になったというのではなく、元々好きだった歌を趣味で習い始めるうちにめきめき頭角を現し、周りから押し出されるようにステージに上って喝采を浴びるところとなった、という方が正しいだろう。不惑を過ぎた頃から始めた習い事で一気にプロになるところが彼女らしい、と私は思う。しかし実際にそのステージを目の当たりにするまで、私は本気にしていなかったのである。Yukoのいつもの「でかい口叩く癖」("boasting Yuko")程度に「フンフン」と聞き流していた節がある。だが、ステージの上の彼女は貫禄たっぷりの歌手であった。これは大変身である。 桜木町の街角にあるライブハウス(Jazzスポット「ドルフィー」という)は日曜日の昼間だというのに、見る間に満席になった。私は一人だったので最初からバーの片隅に座って入ってくるお客を眺めていた。50人余りでいっぱいの小さな店だから、「満席」といってもたかが知れているといえばそれまでだが、どんな場所でもフルハウスはそれなりに壮観である。出演者はYuko一人。昔から独り舞台の好きな女だった。ここに来て文字通り、一人でみんなの視線を独占しようとは、大した根性じゃあないかと私も開幕前から感心せざるを得ない。教室に学生を集めて講義するのとは訳が違う。ここへ集まってくる人々はみな、木戸銭を払うのである。飲み物が一杯ついて2800円也。CDが一枚買える値段だ。しかもご近所から普段着で、というよりどの人もどの人も、額に汗を浮かべて遠くから好きな歌い手の歌を聴くためだけに万障繰り合わせて駆けつけたという雰囲気を漂わせている。これはただごとでは無さそうだ、とようやく私も合点がいったときには早くも開幕。 「開幕」とはいえそんな小さな店にカーテンがあるわけもなく、ただピアニストがピアノの前に座って奥に合図すると、本日の主役の登場。どこから見ても、二十歳の頃からの友人Yukoに間違いないのに、彼女は私の知らない女であった。先ほどまで客の間を縫って、冗談を飛ばしながら笑顔を振りまいていたあの気のいい女とも違う。「あら、あんたホントに来てくれたの。来ないと思ってたのに。なによ。」と目をむいて私に突進してきたYukoとも違う。私たちが会うのは一年ぶりだった。前の年、春未だ浅い恵比寿ガーデンプレイスのビル風吹きすさぶ広場で、私のリクエストに応じて『ミロル』を一曲歌って見せた時の彼女は、まだまだアマチュアだったと思う。プロはそんな道端で歌ったりするものか。あの頃Yukoは「いつか独りで舞台が張れたらね。」と遠くを見ていた。 「本日のピアノ、原英彦さんです。この人との出会いは、私にとって特別なものでした。こんなに楽な気持ちで、全てを任せて、気持ちよく歌えるなんて、本当に信じられないくらい、凄いピアノ弾きと出会ってしまいました。」と語り出すYuko。客席に漲る期待が空気を伝ってビンビンと私の肌に刺さる。そして流れ出す音。歌い始めるYuko。正直言って信じられないのはこちらだった。そりゃ、歌がうまいのは昔から知っていた。数年前彼女の、イギリスはOxfordのフラットに泊めて貰ったときにも、夜中にビール片手に彼女はシャンソンを歌っていた。夏の夜。止まないお喋り、止まない歌声。なんてタフなのこの人は、一体いくつになったと思っているのよ、と眠たい私は夢うつつでいつ終わるとも知れないYukoの声を聞いていた。二十歳の頃には競い合って喋りまくり、夜明かししたことも数知れず。だが、それぞれが所帯持ちになってからは滅多にそんな機会もなくなり、いつでも時間を気にしながらの逢瀬。「これじゃまるで世間の目をしのぶ仲ね」と笑いながら、「それじゃまた」と言った先今度いつ会えるか分からない。そんな関係でいても、会えばいつでも気分は二十歳。話は尽きないのだった。だが、その日舞台で見るYukoは私の知らない女であった。 『五月のパリ』、『街』、『地下鉄の切符切り』、『黒い鷲』、『私の神様』、『ファタル』、『タブーの扉を開けて』、と歌い継ぐYuko。合間に絶妙な語り。時にあだっぽく、時に猛々しく、また愛らしく。横浜の裏町で見つけたという昔気質の仕立屋に作って貰ったに違いない、奇妙なドレスに身を包み(それは洋服とも和服ともつかない代物だった。明らかに全く別のところから出てきた古着を継ぎ合わせて創作したリサイクル衣装)、「専属のメークさんにやって貰ったのよ」と大いばりするメリハリの利いた化粧。マイクを握りしめ、鋭角的な横顔を天井に向けて、物語るように歌う。シャンソンはドラマだ。その殆どが愛と恋の歌。しかも大人の、世間を知り抜いた、ひと年取った男と女の物語。戦火に引き裂かれたり、群衆に呑まれて生き別れたり、心変わりしたり、死んでしまったり、悲しい別れで一杯の歌。ところがよくよく耳を傾ければ、主人公は誰もくずおれて終わったりしない。「それでも私は生きていく」、「愛することが生きること」、「あの世でまたあなたに会えるなら」としたたかに健気に、何度でも立ち上がる。これは、と私は唸った。Yukoはシャンソンを歌うためにこれまでの人生を何一つ無駄にしなかった、と。 愛することにおいても、憎むことにおいても、喜ぶにつけ悲しむにつけ、Yukoはいつも半端ではない。二十歳の頃、私たちの前に現れた一人の男を指して彼女は私にこう宣言した。「あの人を好きになったわ。誰にも邪魔させない。」彼女はその恋を貫いて、生涯の伴侶とした。先ほどその男がにこやかに、黙々とお客からチケット代を受け取っていた。今や彼は彼女のマネージャーも兼ねる。彼は自分のビジネスを持っている経営者であり、最も仮借無い彼女の批評家でもあり、二人の子供達の父親でもある。女房が歌手になったからといってたじろぐような男ではない。歌の中で彼女がいくつの激しい恋をしようと、嫉妬する男でもない。だからといって、飛んでいく妻に取り残されるような男でもない。二十歳の直感に狂いはなかったようだ。私はライトを落とした暗い店の端とスポットライトに照らされた舞台とで呼応する男と女を見比べてもいた。あのときのあの出会いがこんな風になろうとは夢にも思わなかった。二十歳の頃から二人を知っているお客は、多分私だけだったろう。 幾度にもわたる困難な手術を受けたとき、弱音を吐く代わりに私に「ここに書いたリストの本をかき集めてきてね。今が読むチャンス」と逆境を羨ましがらせるほど意気軒昂だったYuko。「恋をしたら痩せなくちゃ」とダイエットに挑み、見事スリムになったこともあるYuko。女子大を卒業すると同時にイギリスに留学して、その当時一度も海外に出たことの無かった私を歯ぎしりさせたYuko。一人で街をさまようばかりだった私を尻目に、体験的恋愛論を語り続けて私を煙に巻いたYuko。一緒に働いていたバイト先の塾で、二人揃って計算違いをした挙げ句、生徒の数の何倍ものホットドッグを前に呆然としたYukoと私。私に先んじて意気揚々とウェディングベルを鳴らしたYuko。二人子供を産んで、「あんたどうする気よ」と他の人の言えない台詞をストレートに投げつけてきたYuko。過酷な大病に見舞われて余人の知る由もない心身の試練をくぐり抜け、「これからはね、やりたいことを先に延ばさないの」と、射抜くような瞳で私を見たYuko。大好きなイギリスに一軒構え、夏になると子供達を引き連れ飛んでいくYuko。行く先々の国から手紙やはがきを寄越すYuko。どこにいても彼女の周りには人が集まる。今度はミュージシャン、画家、物書き、各種ディレッタント、そしてファン。国籍は問わない。彼女は優れた語学教師でもある。ライバルが聞いて呆れる。とっくに彼女は別世界の人と思いきや、「一番聞いてみたいのはあんたの意見なの」としおらしい。それが舞台の上にいるYukoなのだった。 幕間を挟んで『あたしの男』、『アコルデオン弾き』、『群衆』、『時は過ぎて行く』、『涙』、『そして今は』、と続きクライマックスはYukoが自ら訳した『愛の賛歌』。ここで私は不覚にも涙をこぼしかけて、ふと気付くと臆面もなく泣いている客が何人もいるではないか。五十人が息を潜めてYukoを見つめている。Yukoはピアノと一つになって、全霊で歌う。アンコールは『リリー・マルレーン』と『水に流して』。終わりの台詞が笑わせた。「許して。もうこれで限界。これ以上、私は歌えない。だから今日はこれでお仕舞い。ありがとう。」店は再び明るくなって、お客の溜息があちこちでもれる。みんなぞろぞろと出ていく。何やらYukoの思うままだった。私も水割りが程良く回った体で、外に出ると、歌の通りの「五月」が眩しい街だった。知り合いが歌ったから面白かったのではない、と私はつぶやいていた。いい歌手だった。良いライブを聴いた。桜木町くんだりまで来て、損はしなかった。細かいことを言えば批評はいくらもできるだろう。高音がちょっと不安定だったとか、少しざらついていたとか、囁くような語りの部分はもう少し磨いた方がいいとか。しかし、そんなことはどうでも良いじゃないかと思わせる、それが歌手というものだろう。一時浮き世を忘れさせるのが歌手の芸。Yukoは見事にそれを実現していたのだから。 暫く経ってYukoは電話してきた。いつも以上にハイトーン。電話の苦手な私は、いつ話を切り上げたらいいのか分からない。面と向かって話すときには切り込めるのだが、電話はいつでも彼女のペース。「泣いてる人もいたじゃない。」と私が言うと、「泣かして終わりにしたくないのよ。」と来る。いつもながら強気だ。私が彼女のステージに圧倒されたことは分かっていながら、それでもやはり一言欲しいらしい。そうだ、彼女は昔から賞賛を求めるタイプだったし、私は友人を賞賛するのがうまいタイプだった。だから私たちはいつまでも別れない。競い合い、刺激し合い、褒め合って、数十年。馴れ合いではない。互いが気になる者同士。「良かったわよ。」の一言で彼女は喜ぶ。「それじゃ今度、メール書くから。」で電話が切れた。えっ、Yuko、あんたいつからメール書くようになっていたの。ちょっと、それって私の専売特許だったのに。やはり彼女は侮れぬライバルである。あのお喋りがメールを始めたらなまじなことでは終わらない、と私は心底震え上がる。(もっとも彼女のメールには、「なんと言っても直接会うに勝るものはありません。キーボードに向かって長い時間過ごすのは私に合わない」と書いてあった。ホゥホゥ、まだまだインターネットの醍醐味を知らないのね、Yukoさん。)今度は神奈川県民ホール(小ホール)で六月末にコンサートだという。悔しいけれど今のところ、デビュー一年でここまで変身した友に、拍手以外贈るものを私は持っていない。(続く) 「これで三度目ですね。四度目がないように、気を付けて下さい。」 いえいえ、本当はひたすら路上が恐ろしかったのです。青梅街道を車の流れにのって周りのスピードに後れをとらないよう走るのが怖くて怖くて、試験に合格してもついにその恐怖心を克服する勇気が湧かなかったというのが実情です。何を時代遅れな、と笑いたい向きはどうぞご自由に。怖いものは怖いんです。だから車をスイスイ運転している人のことは無条件に尊敬してしまいます。颯爽と車のキーを片手に愛車に近づいて、こともなげに運転席に座り込み、鋭いまなざしで前後左右を確認しながら発進するお姿は、男性でも女性でもたいそう魅力的です。 そんな私もアメリカに行ったときには背に腹は代えられず、個人教習を受け直して左ハンドルの車をバンバン飛ばしました。流石にフリーウェイはダメでしたけれど、八車線は有ろうかという「普通の道」(インターステートっていうんですか)なら、どうということもありませんでした。車線変更だって、追い越しだって何にも怖いこと有りませんでした。だって広いんですもの。車間距離をいくらとっても誰にも文句言われないし、駐車場はいつだってすかすかだし、第一道がまっすぐで、遙か彼方まで見通せるのですもの。信号も滅多にありませんでしたしね。それとドライビングスクールの教官の教え方には雲泥の差が。此方ビシバシ叱るばかりなのに対し、彼方誉め上手。(「素晴らしい、今の停車はうっとりするほどエレガント。」などと言われればどんな豚でもスルスルと木に登ります。) 皮肉なことに、バージニアで取ったライセンスは抽斗の中のパスポートに入れて置いたので、今回なくしませんでした。なくしたのは手帳に入れておいた日本の免許証です。手帳も、財布も、その財布に入れてあった各種のカード類も、家の鍵も、携帯電話も、要するに所持品をひとまとめに入れたバッグごと忽然と消えてなくなったのです。女がハンドバッグをなくすとはよほどのことと誰だって思うでしょう。自分が如何に迂闊であったかいくら悔やんでも後の祭り。「なんて馬鹿だったの」と幾度自分に言ってみても、取り返しが付きません。自転車の後部バスケットにバッグを入れて駅前の雑踏を通るなんて、東京住まいの人間のすべきことではないのです。けれど、私はそういう「べからず」をその日に限ってやってしまいました。 あれから三週間。先ず交番に盗難届を出し、あちこちのカード会社に電話してなくしたクレジットカードを全部無効にして貰い、銀行にも電話してキャッシュカードを無効に。携帯電話も即座に停止。建具屋さんに来て貰って玄関ドアの鍵を付け替え、カード支払いの幾つかの契約をし直したり終了にしたり。身辺整理に追われました。暫く私の生活はカードと無縁のものになりました。銀行へ行くにも必ず印鑑持参。おとなしく順番を待ってお金をおろす、二十年くらい前の習慣に逆戻り。どんな買い物もカード無しで、財布の中味と相談しながら慎重に。公衆電話を探し、なくした定期券の代わりに毎度毎度切符を買って電車に乗り、鞄を網棚に載せるなどもってのほか。そんな暮らしをしていました。 一番痛切に感じるのは、私が私であることを人に認めて貰う証明をなくしてしまったという思いです。東京の同じ街に住んで、同じ職場に通っていても、私が誰だか誰も知らないし、説明することもできない感じです。ごっそり盗られてしまったのは、私という記号、私という暗証番号、私というアイコン。毎日車を運転している人が免許証をなくしたらその喪失感はこんなものではないでしょう。(今回よく分かったのですが、免許証は日本では最もよく通用する身分証明証なのですね。パスポートを持っていっても健康保険証との組み合わせでないと受け付けて貰えないことがあります。)奪っていった人にとって、そんなものが何かの役に立つのかどうか、未だ分かりません。もし奸計に長けた人なら、手帳の中味を接ぎ合わせて私の個人情報で架空のクローンを仕立て上げるとか、逆に私を脅迫することも可能でしょう。ただそれにはかなりのエネルギーが必要です。金品を即座に消費してしまう何倍もの時間と労力が要るはずです。でも時に私は考えてみます。もしかすると私の自己証明で別人が何かをしているかもしれない、と。奪い去られたのは私の影だったのかもしれないと。 そんな想像をするときに感じる「怖さ」は東京で車を運転する恐怖(そんなこと、と呆れる人の方が多いでしょうけれど)とは全く別種のものです。人は色々なものをなくしながら生きています。家を焼かれたり、肉親を病に奪われたり、失業したり、己の若さを失ったり。比較すればものをなくすなど、いかほどのことでしょうか。しかしささやかながら有って当たり前と思っているものを突然なくしたときに、ぽっかり空いた穴から、人は今ある自分の頼りなさを思い知らされます。自己証明(アイデンティティー)は誰にも肩代わりして貰えないものですし、第一自分にも自分はよく分かっていないのです。「私は誰?」と、ことばの通じない異郷で自問して狼狽えるような感覚。あのバッグは今どこにあるのでしょう。「私」を詰め込んだまま川底にでも沈められたのならいっそ安心です。もし未だ誰かの手の中で定まらぬ行方を思案されているのだとしたら、こちらにいる「私」が別人になってしまう方が話は早いのかなとすら思います。 大げさ、でしょうか?なくした者にしか分からない思いがあることを、私は今かみしめています。 |