まえがき
私、豊田偕子 が童謡作曲家とし知られる祖父弘田龍太郎と過ごしたのは六歳になる直前までです。弘田龍太郎はその時までに沢山の童謡を発表しており、殆ど音楽室に閉じこもったり、レコード会社に出かけるという毎日を過ごしていました。
私は父と母(瑠璃子=龍太郎の次女)と妹苑子、弟弘之と一緒に弘田家の一画に住んでおり、夕飯の準備によく母の側に立ったものです。そんなときに交わされた、とりとめのない話の中にドイツ・ベルリンなどという地名がちらちらと混ざっていました。夏の夕べに枝豆などをどっさり茹でていると、母が、
「ドイツのおまめはね、もっと大きいのよ。ドイツではお豆は沢山食べるの。でもお料理してシチュウーの中に入れて煮込んだりする料理が多いのよ」
などとよく話してくれたものです。また、ある朝には、こんなことも話してくれました。
「ベルリンのお家を出て直ぐ、角を曲がって行くと朝早くから焼きたてを売るパン屋さんがあるの。そこのパンはとても美味しいのよ。日本で食べたことのないような大きさなんだけれど、中側がふわふわっとしていて。といってもさめるとすぐ硬くなるんだけれどね。毎朝それを買うのが日課だったわ。食卓につくと妙子お姉様、私、妹の三春とお父様お母様でお食事をします。まだドイツで生活して間もない頃、食事の席でお父様は子どもたちによく質問をしたわ。ナイフを取り上げて『これはドイツ語で何て言うんだね』とか、順番に聞かれるの。私が『アインメッサー』と言いましたら、お父様とお母様はにっこり顔を見合わせてうんと頷きました。そんなことがあって生活の中で少しずつドイツ語を覚えていったのよ」
私が母の日記をまとめて出版したいという思いはその頃から芽生えていました。祖父弘田龍太郎も、同じ思いだったようです。
この日記は小学校五年の母がほとんど一日も休まず、旅行中とドイツ滞在時の生活を綴ったものです。中にはたった一行お天気しか書いていない日もあれば、楽しかったオペラやサーカスの思い出を何行にも渡り綴っている日もあります。旅先での様子はこの日記を読めばよく分かることと思います。
龍太郎の三人の娘たちはドイツでほとんど学校に行かず、ラーバン、ビックマンダンス学校で学び、算数・英語・ドイツ語・綴り方などを家で勉強していました。この頃のドイツは二つの大きな戦争にはさまれ、あの陰鬱なヨーロッパの重苦しい空気の中でほんのつかの間の休息をえていた頃だったのではないでしょうか。母は、日本からはるばる船に乗ってやってきた小学五年生の一人の少女の目を通して、あの時代の事実のみを拾って、幼い字で、ほんとに小さなノートに書き綴っております。
その後、ドイツと日本のどちらの国も、戦争に巻き込まれていきました。わずかな短い時間の交流ではありましたが、子どもたちの世界は戦争とは別で、後世に伝えるべきものが沢山あるはずです。私はそれをどうしても残したいと思ったので、この日記を出版することにしました。
日本の小学校五年の子どもの目を通して見た1920年代のドイツは、どんな輝きをもっていたのでしょうか。それを今の同じ世代の人々がどういうふうにかんじてくれるでしょうか。それぞれの時代の少女たちに尋ねてみたい気持ちがします。
私の母がやりたくて、周囲の事情で出来なかった日記の出版を、私がほんの少しお手伝いし、母弘田瑠璃子に捧げたいと思います。
長男の弘之は、特に母に可愛がられ、この出版には、時間・手間を惜しまず、多大な協力をしてくれました。また、次女苑子も少なからず協力してくれました。感謝を捧げます。
平成16年11月14日
豊田偕子
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