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『読んで得する翻訳情報マガジン トランレーダー・ドット・ネット』掲載 「翻訳読書ノート」 by Keiko ※ 提供 日外アソシエーツ株式会社 上記メールマガジンの【TranRadar電子辞書Shop blog】でもご覧いただけます。 メールマガジン配信の後に、随時掲載いたします。
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「アーティストは藝術家」 半世紀以上も倦まず弛まず情熱を捧げ続ける対象を得た人生は幸福であろう。丸谷才一はジェイムズ・ジョイスで大学の卒論を書いてキャリアをスタートさせ、自身が小説家・文芸評論家となって一家を為し、今またジョイスの新訳を上梓した。ジョイスの好きな「円環」を地でいく。落ち着いたコバルトブルーの表紙には日本語で、裏表紙には原語でその堂々たるタイトルが印字されている。『若い藝術家の肖像』(ジェイムズ・ジョイス著 丸谷才一訳 集英社 2009)という、このずっしりと重い(820g!)単行本を取り上げる読者はいかなる人々であろうか。 総ページ数の1.2%(65ページ)は丸谷自身の小説解題である。のみならず各ページの下段20%は脚注に充てられている。そうでもしないとこの重層構造を持つテキストを日本語で味わうことが出来ないと訳者は考えるからであり、調べれば調べるほど掘り出されるヨーロッパ文化(とりわけキリスト教と古典芸術にまつわる蘊蓄)の奥深さ・幅広さを日本語に表す方法はないと彼が確信するからであろう。もちろんジョイスの故郷であり終生作品の舞台となったアイルランド、ダブリンの地誌や歴史についても同様である。ページをめくりながら私は心の内で「これぞ筋金入りのマニア、正真正銘のオタクだ」と快哉を叫んでいた。 しかし、この本を通勤電車で読むのは苦痛である。(重すぎる。)ゆったりと構え、図書室か自宅の机(食卓でもOK!)に広げるしかない。何にも邪魔されずに読書に耽溺できるなら、至福の時が過ごせるだろう。だが、この作品、初見の高校生が楽しめるか知らん?幼年時代と少年時代を描くI章、いよいよ性的な懊悩の始まる思春期II章までは文体の(比較的な)平明さに助けられてスラスラ行くはずだ。III章の地獄の説教あたりからリタイア組が出るかもしれない。(いや、ダンジョン巡りだと思えば受けるのかも。)そこを抜け、天命への問いかけ、拒絶、解放へ至るプロセスはスリリングだろうか。V章の美学論争、哲学・歴史・民族観などの「問答」はどうだろう。ただ面白いとは言えまい。けれども丹念な読書のあげくに最終行にたどり着いたなら、達成と高揚感が得られること間違いなし。 A Portrait of the Artist as a Young Man はUlyssesと並んでジョイスによる20世紀文学の精華とされている。こうして「新訳」で登場したかつての前衛的作品は未だ色褪せぬどころか益々面妖にテキストの迷宮へと読者を誘う。「導師」の役を買って出る翻訳者、丸谷才一のいかにもしかつめらしい、そして実はきわめてユーモラスなスタンスが、この本格的文藝作品に新たな命を吹き込んだ。どうか、返品の上裁断されるなどという多くの良書の運命を辿ることがないように!この翻訳は我が日本語の財産なのだから。 |
「亜大陸の白虎」 評判の映画を見逃すと、DVDとなりレンタルが始まるのが待ち遠しい。最近漸く『スラムドッグ・ミリオネア』を見た。スラム育ちの若者がテレビのクイズ番組で全問正解し、大金を手に入れる話と言えば単純化のしすぎだが、まさに天から垂れた一縷の糸にすがって地獄を脱出するようなスリルと光明を感じさせられるドラマだった。複雑なインド社会の一端を描く卓抜な作品といえよう。しかし、更に深くその世界に踏み込むことを望む人に、『グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ著 鈴木恵訳 文藝春秋社 2009)は恰好の小説である。 題名の通り、これは書簡体モノローグである。田舎町の車夫の息子が、運転を習い覚えるチャンスを得て資産家の運転手に雇われ、インド社会の闇と光を召使いとして観察する。屈辱的経験を重ねた末、殺害した主人から奪った金を元手に起業家として成り上がり、訪印する中国首相に宛てて社会構造、家族制度、カースト制、伝統的価値観とその変化、都市と田舎、豪邸とスラムなど、インドの実像を克明に解説するという趣向だ。気鋭のジャーナリストである著者の描写はディテールまで鋭い。 民主主義的選挙の実態(賄賂、饗応、不正投票など)をはじめ、都市に建設の進む高層マンションの内部(地方豪邸の台所面積にも満たないフラット、召使い専用の地下室のありさま、肥満した金持ちのランニングの滑稽など)と足下の建築現場の汚濁、また人命のとてつもない軽さ(轢き逃げ事故、結核死、報復による惨殺など)、いわゆる先進国のお上品な常識の理解を遙かに超えている。 これは過去の歴史物語なのか、それとも最新の現代小説なのか。その答えは紛れもなく後者だろう。前述の映画で、スラムに育つ主人公は躊躇いなく糞壺に飛び込んだ。この小説で主人公は囚われの「鶏籠」から抜け出す。ジャングルで一世代にたった一頭しか現れないホワイト・タイガー(白虎)との自負あるいは妄想を胸に、託された幼い甥以外すべての係累を犠牲にしても、使用人や奴隷としての人生と決別する。たとえそれが殺人の上に成り立つものであったとしても。彼は光の世界を牛耳るものたちが人殺しと無縁だとは思っていない。皆、誰かしらを踏みつけて特権を得たことを熟知している。だから、現代の「罪と罰」に応報の必定は描かれない。 インドをカースト制度と家族の絆に縛られた究極の格差社会と断定するのはもはや旧来の偏見にすぎないのかもしれない。だが、内側にあってその実情を丹念に描写する文章を読むと、所詮フィクションと侮れないリアリティーの充満に圧倒される。インド・中国いずれかが近未来にアジアの覇者となるのか否か、映画や小説から想像できることは多い。台頭する世界のパワーを見誤らず読み解くことが、日本語の読者にも必須と確信させられた。 |
「音楽の響く小説」 上質の物語を読む時、読者は内的な旅をし、別の人生を生きている。読んでいる最中は書かれている言語の種類も意識しない。だが翻訳書にはかすかなフィルターが掛かっている気のすることが多い。こんな日本語をしゃべる人がいるだろうかと時折訝しむことはあるにせよ、それを忘れさせる文章であるなら多少の違和感はむしろ作品の個性として受容できる。『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 早川書房 2006)はそんな本の一冊だと思う。 クローン人間製造システムがあったとして、生まれた子供たちが成長して「(臓器)提供者」、あるいはその「介護人」となって使命を果たすまでをこの物語は描いている。散りばめられた暗示から次第にその設定は明らかになっていく。ごくありふれたイギリスの片田舎の若者たちに鬱屈はあっても、自分たちの特殊性を自覚する彼らには運命を変えようとか逃げ出そうとい意志は働かない。語り手のキャシーと、親友でありライバルでもあるルースと、この二人と関わりを持つトミーの心の機微を中心に、外的にはあまり起伏のない彼らの日常が綿々とつづられる。 若者たちは世間一般の人々と混じり合って生きる機会がないことを嘆きはしないが、「ポシブル」と呼ぶ自分たちの生命の元であったかもしれない人との出会いを密かに期待するところはある。予め定められた人生の中で彼らは健気に愛し合い、憎み合い、許し合う。人ならぬヒトからも自身の存在の意味を問う「心」を省けるはずはないと、彼らは静かに語り続けているようだ。運命執行猶予への仄かな希望が失われたとき、小説は終わる。 クローン人間の成長という着想は荒唐無稽なのか、それとも現実味を帯びているのか?人権思想を生み、ダーウィンを生み、かつクローン羊のドリーを生んだ国で書かれるべくして書かれたと思えば、日系英国人が作者であることに拘るのは的外れだろう。それが日本語に訳されて日本の読者に供される。これは間違いなく国境を越えた我らの時代の作品だ。 実はイシグロの最新短編集『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(土屋政雄訳 早川書房 2009)の洒脱さに唆されて「もう一曲」と手にしたのがこの本だった。「わたしを離さないで」というのも曲名である。カセットテープでその曲を流して、命を授かる奇跡を夢想しながら一人で踊り、一度は失ったテープをトミーとともに再発見するキャシーの物語は、作中に描かれる湿地に打ち上げられた廃船や有刺鉄線に引っかかって風になびく漂流物と同様、うら寂しくもまた美しい。手の届きそうな戦慄すべき未来と、取り返しのつかない懐かしい過去は、音楽が与える夢と幻で緩やかに繋がっている。 |
「ドキュメンタリーの魂」 今年も9.11が過ぎた。あの無差別テロはどのような経緯で起こったのか、複合的視点からの丹念な取材を元に書かれたのが『倒壊する巨塔 アルカイダと9.11への道 上・下』(ローレンス・ライト著 平賀秀明訳 白水社 2009)である。事件は何も青天の霹靂ではなかった。十分に予想されながら、阻止出来なかったことが明かされる。 片やウサマ・ビンラディンを首領とするアルカイダやアイマン・ザワヒリに率いられたジハード団などアフガン・アラブズ、片やジョン・オニールに象徴されるアメリカ合衆国のFBI捜査官やCIAの局員達。両陣営が9.11に収斂していく様は、息をのむ緊張感に満ちている。サウジアラビアに発し、エジプト、スーダンを巻き込み、イラク・クウェート・イランを跨ぎ、パキスタンからアフガニスタンに至る地域に暗躍するイスラムのテロリスト達が、遙か彼方のアメリカ合衆国を宿敵と定めたのは何故か。サウジアラビアの大財閥の御曹司がカラシニコフを抱えてアフガニスタンの山奥深くに隠棲し、ハイテク武器で重装備したアメリカにテロ攻撃を仕掛け続けるとは荒唐無稽な狂気の沙汰に見える。にもかかわらず、自爆攻撃の想像を絶する破壊力をテロリスト達は現代社会に誇示してきた。仕掛ける側、それを阻もうとする側、いずれの陣営にも隠微に見え隠れする内なる敵がいる。世界を震撼させる事件の裏側で相争う人間達の姿を詳述しながら、本書が淡々と描き出すのは、血を流すのは生身の人間であり、兵士や聖戦士を自称する輩より「無辜の民間人」の方が多いという紛れもない事実である。殉教と陶酔して自爆テロを行う者達も、復讐心に燃えミサイルをピンポイントで撃ち込む大国も、殺傷の過酷さに於いて差はない。「アフガンは帝国の墓場」とアメリカを挑発し続けるビンラディンは、老いても病んでも尚、荒野の洞窟にいる(らしい)。その不気味さが惻々と伝わってくる。 膨大な資料と318人に及ぶ関係者とのインタビューを元に書かれた本書は、アラブ諸国とアフガニスタンの人士・歴史・情勢を丹念に紹介・分析しつつ、攻撃目標となったアメリカ側の内情にも容赦なく切り込んでいく。そしてウサマ・ビンラディンの生いたちや私生活が時にはユーモアさえ感じさせる筆致で描かれると、とりわけ本当はお洒落も贅沢もしたかったであろう第一夫人が憤然と自ら離縁して行く様や、ニンテンドーのゲームで遊ぶ息子の様子など、「普通の人びと」の素顔が見えてくる。FBIを退職して世界貿易センタービル保安主任職に就任したとたん9.11を迎え、倒壊する巨塔の下に消えたジョン・オニールの、正義漢と言うよりやんちゃ坊主ぶりには苦笑させられる。間違いを犯すべく生まれた人間達がこの地上に建てた塔はいずれ自ら引き倒すしかないのかと思いながら、行間に希望を探すのもまた人間なのであろう。ピューリツァー賞受賞から2年を経て訳出された本書の著者は、優れた映画の脚本家でもあるという。なるほど、手に汗を握るはずである。
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「詩人たちからの贈り物」 遠い昔、学生時代に講演を聞いた。東大から講師が来るというので、緊張して座っていたら温厚な紳士が登壇してこう言った。「英文学の主要な源泉は三つあります。聖書とシェイクスピアと、マザー・グースです。日本の学者はたいそう熱心にシェイクスピアを論じるけれども、マザー・グースを詳しく研究する人は、あまりいません。しかし、英語圏の人々が幼い頃から口伝えに聞き覚えて生活の端々に登場するナーサリー・ライムを知らずして、英語を真に理解することは出来ません。」私は密かに「源泉の二つは無理そうだけれど、マザー・グースなら、手が届くかも」と思ったものだ。平野敬一先生の謦咳に接した唯一の機会だった。 平野氏によって開かれた扉は、その後日本に幾度かの「マザー・グース」ブームを招来した。1000編にものぼろうかという伝承童謡の全てが日本に紹介されたわけではないが、嚆矢を放った北原白秋の足跡を継ぐ詩人たちによって、児童書のコーナーに翻訳詞華集が常時並ぶようになった。とりわけ谷川俊太郎の訳業は群を抜いている。大学を卒業してどうやら少し稼げるようになった頃、私は全集『マザー・グースの歌 第1集〜第6集』(谷川俊太郎 訳 イラストレイション 堀内誠一 草思社 1975)を揃えた。薄い絵本の一冊一冊に愛着がある。それをコアにして内外の「マザー・グース本」を集めるようにもなった。「童謡」とはいえ、「マザー・グース」はメロディのついた歌ばかりではない。ライムであるから、韻を踏み、意味以上に音を楽しむことば遊びと言った方が当たっているものも多い。音がことばを呼び、常識を覆すナンセンスの領域に詩は突入する。子どもは笑ったり怖がったり神妙になったりして、絵を食い入るように眺める。いや、子どもばかりではない。 源泉どころか、支流からも遙かに離れた荒野をさまよう私であるが、確かに「マザー・グース」とは色々なところで出会う。ジョイスの作品を読んでいて、思わずニヤリとしたこと数知れず、日常の表現でも「誰が殺した?」とくればコマドリの詩が思い浮かぶ。谷川との共同作業から出発して独自の訳を出した和田誠の作品集『オフ・オフ・マザー・グース』(筑摩書房1989)、『またまた・マザーグース』(同 1995)は流石に作詞家の作品集らしく音とリズムに拘り続け、どうしても日本語で脚韻を踏もうという意欲作ばかりで思わず笑いが漏れる。自作のイラストではなく18, 19世紀英米の木版画を加工したという挿絵が、谷川・堀内組とはまた違った味を出している。こうなると、大人の楽しみである。 日本でも公立の小学校で英語を教えることになった。だがくれぐれも「マザー・グース」は教訓的な子ども向けの詩ではないことを銘記したい。いっそ日本の詩人たちからの贈り物の訳詞でうんと遊ばせてから、「英語ではね」という順序も有りではないかと私は思う。 |
「人から人へ受け渡されるもの」 24/03/2009 逝く人があれば、見送る人もいる。『親の家を片づけながら』(リディア・フレム著 友重山桃訳 ヴィレッジブックス 2007)と『親の家を片づけながら 二人が遺したラブレター』(同 2008)は、フロイト研究を専門にする精神分析学者として、また一人娘としての著者が向き合った、両親との死別に纏わる心の軌跡を刻む書である。 両親が遺した一軒の家と、その中に詰まっていた夥しい「もの」の数々。それらを始末するのが如何に容易ならざる仕事であるか、第一の書は明かす。フレムの両親は二人ともホロコーストからの生還者であった。生前二人は被害者としての経験を、余りにも過酷でどのようなことばも十分に語ることが出来ないと沈黙を保っていた。そのため娘は殆ど親の真の姿を知ることが許されていなかった。両親は死んで初めて遺品を通して娘の前に緊張を解く。ものと静かに対峙するフレムが記すのは、個人史と世界史を重ねる記録である。 ロシア系ユダヤ人の父はヴェルツブルグ強制収容所に囚われていた経験を持つ。フランスでレジスタンスの闘士だった母はアウシュビッツに送られた。ベッドサイドから出てきた父の囚人カードや母の勲章、両親が探し求めた肉親や親類縁者の最期を示す記録の数々。それら「忘れてはいけない」と重く過去を語る品々と、逆に母の手縫いの美しく洒落た衣装に極まる豊かな遺品。対比は見事で、フランスの個人宅の抽斗など覗けるはずのない者にまで惜しげもなく披露される品々は、残虐と優美を併せ持つ複雑な文化を雄弁に語る。 日常の会話はあっても親子に真の対話はなかったと振り返るフレムが、父母をついに手繰り寄せるのは、二人の往復書簡を通じてだった。アウシュビッツと直後の「死の行進」で重症の結核にかかり、スイスのサナトリウムにいたジャクリーヌとベルギーで暮らすボリスが交わした750通から、フレムは二人の抱えていたトラウマの正体と愛や希望を読み解いていく。手紙のことばを軸に二人の置かれた状況を再構築しながら、自分が生まれてきた源泉をたどり、育った背景の謎に迫る筆致は、手紙の書き手に対する敬意とことばへの信頼に満ちている。 ものとことば双方を「記憶」の手がかりとして書き留める仕事は、個人の財産を人間の共有財産へと転換させる行為と言えようか。ヨーロッパの人々の記憶がこうして記録されるように、例えば今なおパレスチナで続く戦の記録もやがて誰かが残すのかも知れない。時を超え、距離を超えてわれわれは書物の中に人々の生きた証を見出す。受け渡されたものをどのように扱えばよいのか、フレムと共に読者も問われる。翻訳を介して人類の記録が果てもなくこの国に届けられるのであれば、異国のことと目をふさぐわけにはいかない。 |
「生命水はどこに?」 26/01/2009 『パリデギ 脱北少女の物語』(黄ソギョン著 青柳優子訳 岩波書店 2008)を読み終えた時、もしどこかでこの作品に通じるものを読んだことがあるとすれば、ミヒャエル・エンデの『モモ』かもしれないという思いが脳裏を横切った。少女モモが時間泥棒に奪われた人々の命の花を取り戻す冒険譚は、子供向けのファンタジーと言われるかもしれない。けれども、超常能力で時空を飛び越えるパリもまた寄る辺を根こそぎにされた人々をつなぐ巷間の巫女であり、これは極めて非西欧的な救済の寓話ではないだろうか。 「脱北」という言葉の持つ政治性はリアルである。パリは国境の豆満江を自力で渡り、北朝鮮から中国へ、そして密入国船の船底に詰め込まれて九死に一生の目に遭いながらロンドンにたどり着く。不法滞在者のままマッサージパーラーで働くうち、ムスリムのパキスタン人一家に縁づいたものの、折しも「9.11」事件勃発。アフガンに引き寄せられた弟を探しに行った夫アリもキューバのグァンタナモ収容所に捕らわれ、彼の不在中に生まれた娘は同胞の裏切りで死ぬ。北朝鮮の飢餓の描写、密航船の生き地獄、ロンドンの貧民街の活写は読者に息もつかせない。そして夢のように幻のように時折挿入される、パリの体外遊離場面では、キリスト教もヒンズー教もイスラム教も仏教も相対化され、「生命水」を求めてパリが飛び越えていく火の海、血の海、砂の海、そして西天の鉄の城を描くスピード感はシュールリアルと言うべきだろう。パリに時空を超える透視能力や死者の霊と交感できる力が与えられているとしても、そのことで彼女がこの世の苦難から解き放たれるわけではない。艱難辛苦はパリに果てしなく襲いかかる。二度目の身籠もりは光明であろうか。 パリデギ「捨てられし者」という名はパリデギ「パリ王女」の意味を含む。七番目の娘として生まれた女の子は絶望した母に一旦は捨てられるが、愛犬チルソンが連れ戻す。そんな神話的設定の元に一民族の受難のみならず、虐げられる人々の命運を一身に受け、押し寄せる災厄を生き延びていく少女は、自らが母親となっても魂の無垢を失わない。「生命水」とは毎日の米をとぐ水のことだと知り、祖母や義理の祖父の叡智を体得していく彼女には、現代的自我の葛藤や自由独立の希求はない。慎ましい食卓を囲む平安と労りあう家族や縁者との繋がりを何よりの幸いとなす心根があるばかりだ。一度だけ彼女は「恨み」「憎しみ」を自覚する。だがやがてそれは「恥ずかしさ」「後悔」へと変わる。 パリデギの物語は21世紀の世界を一人の女性に託して描くグローバルな作品である。その要は西欧的世界観ではないところにあり、声なき人々の声を響かせるところにある。「私自身は世界のどこにも故郷をもたないが、ただ母国語で文章を書く作家だという点だけは忘れまいと思う」と述べる黄ソギョンに、この翻訳が応える日本語の幸いを思う。 |
「猫談義、米国流」 14/11/2008 アメリカ発の金融大恐慌に日々深刻さを増す新聞の見出しや、大観衆の声援に応えるバラク・オバマ氏の演説にYouTubeで繰り替えし接した後、一冊の本にもう一つ別の米国の素顔を見た。それは『図書館ねこ デューイ 町を幸せにしたトラねこの物語』(ヴィッキー・マイロン著 羽田詩津子訳 早川書房 2008)である。「大きなアメリカ」に対する、「小さなアメリカ」とでも言おうか。この本には、アイオワ州のスペンサーという町の公立図書館を舞台に、一匹の捨て猫がいかにして「図書館勤務」を果たしつつ、人々の胸を温め、とりわけ長らくこの図書館長を務めたヴィッキーの人生をどれだけ豊かなものにしたか、その18年に及ぶ「キャリア」が語られている。 書棚の片隅でこちらを見つめている茶色い猫の瞳に出会ったら、思わず手が伸びる。一読、(ある意味ではミスマッチの)図書館と猫の組み合わせが、地域に侮りがたい「アニマルセラピー」効果をもたらしたことが分かる。デューイはスペンサーを有名にした。生前はNHKの海外ロケ隊を含め数多くのマスコミ取材を受け、全米のみならず世界でも有名な猫であったという。だが、その魅力の背景にある人と町の物語を知ったなら、猫を通じてアメリカの大平原にある小さなコミュニティーの生いたちや苦悩、生き延びるための闘い、そして様々な出会いの場としての図書館の意味というものへの理解が深まるに違いない。ただ「かわいい猫の話」とは、とても言えない。 シングルマザーで数々の疾患を抱える闘病者でもあったヴィッキーは、苦学しながら図書館長を務める。彼女の英断で、書籍返却箱に投げ込まれていた子猫を図書館で飼うことにした時から、老衰に加えて癌のため安楽死に至るまでのデューイの、図書館に於ける堂々たる君臨ぶりと茶目っ気たっぷりの振る舞いを、文字で追うだけでも愉快で暖かな気持ちになる。同時に不屈の精神を備えた女性ヴッキーの孤軍奮闘ぶりに、デューイがユーモアとウィットをたっぷり添えているのが嬉しい。誰の人生にも悲しいことや辛いことがたくさんある。人の愛情は移ろいやすい。様々な誘惑や野心の故に、人はいくらでも変節する。ところが、賢い動物は信頼を寄せた人間に対して忠誠を貫く。惜しむらくは彼らの命は短い。数々のエピソードを残しながら、デューイがした最大の貢献は人間に幸福な気持ちを感じさせることだった。世界には数奇な動物譚がいくらもあろう。デューイは小さな町の図書館の体現するアメリカ社会をリアルに世界へ伝えてくれる。ウォール街やシカゴのような都会だけがアメリカではない。小さな町にこそアメリカの実態が凝縮されている。 ローカルな話の本だ。けれども「猫効果」はユニバーサルだろう。天下国家を論じる一方、一匹の猫を介して触れるアメリカに覚える親近感は、WARよりLOVEと人を頷かせる。 |
「ロシアの奔流」 17/09/2008 ロシア文学の新訳が目につくのは、日本人読者のロシア文学好きを示しているのだろうか、それともロシア文学の懐の深さを証明するものだろうか。本屋の書棚の前で私は迷っていた。と、その時目に飛び込んできたのは『・・・ユモレスカ』の文字。チェーホフだった。その題に惹かれて手に入れた三巻本。長短合わせて114の掌編を休む間もなく読み通した。さて、何が分かったか。明治時代以来綿々と続く、ロシア文学愛好家の長い列最後尾に自分はどうやら立っているらしいこと。 『チェーホフ・ユモレスカ』『同II』『同III』(アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ著 松下裕訳 新潮社 2006, 2007, 2008)は1880年代後半に、医師兼作家チェーホフが各種雑誌に掲載した短編作品の集積である。本邦初訳を多数含んでいる。今この時代に、敢えてチェーホフ。既に没後100年を過ぎた作家である。それでも演劇作品の上演は相次ぎ、こうして短編も現代人に届く。その魅力は何か。ロシア民衆の人情の機微、なんというものではない。それも確かに含まれているかもしれないが、さらに勝るのは民衆の愚昧さと性懲りもなくその本性を描き続ける作家の冷静沈着な目、そして作品に横溢する諧謔精神であろう。テレビのお笑い番組に付き合うのはかなり辛いが、チェーホフには連日ふっと笑わせられた。爆笑にはほど遠いし、哄笑とも違う。苦笑か、微笑か、失笑か、いや名付けようもないそれは一瞬の「緩み」という方が近いかもしれない。作中に出てくるどの男も女も年寄りも中年も若者も、身勝手で他愛なく哀れなものだ。不運と要領の悪さに僅かばかり持っているものを、それがなけなしのカネであろうと若さであろうと将来の希望であろうと、ことごとく目の前からかすめ取られてしまう情けなさ。その原因の多くがヴォトカであり、ちょっとした欲望であり、何より己の虚栄心であるところが救われない。だが、語り手の巧みな描写に乗せられて、これでもかと繰り広げられる人間喜劇にページをめくる手は止まらない。そして背景を成す厳寒の風土、雪解けの季節の麗しさ、都市の汚穢等々、精緻な観察が時空を超えた人の世の普遍性を静かに物語るのである。 帝政ロシア末期の零落した貴族、下級官吏、農奴上がり、役者達、召使い、職人、宿無し、奥方、亭主、求婚者、旅人…、彼らの人生の刻一刻が見いだされ、ごく簡潔に書きとどめられる。大まじめに犯される失敗の数々。そこには現代の利便性のかけらもないけれど、不如意だけは共通にある。どのようにしてこのチェーホフの描く世界を日本語にすることが可能になったか、後書きに記された翻訳者松下裕氏のロシア語習得の過程も興味深い。驚愕や失意、そして諦念。無知と偏見、知ったかぶりや追従、疑心暗鬼。それらはほんのささやかな幸福を飲み込んで渦巻く。短編が集まって奔流となる様は圧巻である。将来のロシアを知る手がかりもこの中に確実にあると思った。100年で人間はそう変わらない。 |
「バイリンガルであるということ」 18/07/2008 我が国では、バイリンガルであることは特殊な能力と見なされる。通訳は花形職業の一つでもある。けれども、小説『通訳/インタープリター』(スキ・キム著 国重純二訳 集英社 2007)を読むと、人がバイリンガルとなる経緯や、二つの言語を仲介する人間の精神的葛藤、そして多民族国家で生きるとはどのような経験なのかを、深く幾重にも知らされる。知的な都市小説としても読めるこの作品は、アメリカの一角に確かな杭を打ち込んだ。 これは韓国から渡米した移民一家の物語である。両親は英語を身につけることもなくニューヨークの下町を転々としながら商売に明け暮れた。6歳と5歳で韓国を出た姉妹には祖国の記憶がほとんどない。妹のスージーは、容姿端麗頭脳明晰な姉のグレイスが発する拒絶的態度に疑問を抱きながら成長する。親子ほども年の違うアメリカ人東アジア文化研究家との駆け落ちでスージーは勘当され、やがて両親は何者かに射殺される。法廷通訳となったスージーは事件の五年後に両親の不審な死亡原因を探り始める。小説は全編スージーによる謎解きの体裁で進行するが、やがて明らかになるのは彼女の知らなかった同胞社会の暗部であり、同胞を裏切ってもアメリカ社会を這い上ろうとした両親の蹉跌であり、母国語と英語の両方ができるが故に両親とINS(米国移民帰化局)の間に立って双方の要請を一身に受けたグレイスの苦悩だった。スージーにとって重要な人物たちは、その愛人であれ、姉であれ両親であれ、ほとんど実際には登場しない。記憶、電話の声、届けられるアイリスの花束、散骨した岬の灯台など、象徴的なものばかり。三十歳になるスージーはアメリカの夢を信奉するどころか、パスポートさえ持たない自分の居場所に幻滅している。彼女にとって二カ国語を自在に操ることは宿命でこそあれ、成功への階段を約束するものでは全くない。ナボコフすら皮肉を込めて語られる。スージーを支えるごくわずかな友人たちにも、アメリカの夢の具現者はいない。ましてやことばができるからといって、アメリカ社会に同化できるわけがないと「移民の優等生」といわれる韓国系アメリカ人スージーが思い定めている様には、虚無と強靱さが同居する。豊かならざるアメリカ、スラムのニューヨーク、韓国人コミュニティー、アジア的アイデンティティー。幸運も幸福も何処にも見えない。スージーの夢想の一瞬の他には。 |
「甘くて苦い闇の奥」 25/05/2008 東京銀座に、我が国有数の製菓会社Mが運営する『100% Chocolate Cafe』がある。そこで配布された美しく愛らしいパンフレットにはオリジナルレシピによる56種類のチョコレートが名を連ね、原料であるカカオ豆の産地を示す世界地図が付いている。もっとも大きな生産地は中南米のように見えるが、アフリカに数カ国、東南アジアにもいくつかの拠点がある。この地図が意味するところを知らずに食べていればチョコレートは(食べ過ぎで太るなどという悩みは論外として)幸せを運ぶ美味以外の何者でもない。 『チョコレートの真実』(キャロル・オフ著 北村陽子訳 英治出版 2007)の原題は邦題より叙述的である。曰く、『苦いチョコレート、世界一魅力的なお菓子の暗黒面を探る』という。最初、私は本書を発展途上諸国における児童労働を暴く告発の書ではないかと思って手に取った。確かにその側面は多く含まれており、マリからコートジボアールに売り飛ばされ、奴隷と同じ境遇にあえぐ年端もいかぬ子供たちのことが語られている。だが、読み進むにつれて問題の核心は現代における奴隷労働(しかも年少者の)を生み出す巨大な経済機構そのものにあることが明らかになってくる。ここに記されたチョコレートをめぐる複雑怪奇な背景には息をのむ。南米に栄えたマヤ・アステカ文明の中で賞味されていたカカオは、コロンブス以来西欧に持ち込まれて変化を遂げ、欧米諸国の近代産業に組み込まれ、今や原料調達から製品加工まで行うグローバル産業の手中にある。チョコレートの長い歴史とそれに絡み合う政治・経済の仕組みは、「児童労働」という一点を衝いただけではどうにもならない根深く巨大なものだと知らされる。著名なチョコレート会社の栄枯盛衰も興味深いが、アフリカの西海岸に展開される独裁政権が地場産業としてカカオ豆栽培を保護し発展させるどころか、貧農から取り立てた税金や利益を着服し軍事費に充て、カカオ豆の相場は彼らにも手の届かない世界市場に牛耳られているという実態は凄まじい。闇の奥をのぞこうとした先達ジャーナリストは消された。幾度も繰り返される「カカオの実を収穫する手と、チョコレートに伸ばす手の間の溝」というフレーズがこの商品の象徴的な現実を物語る。 本書では世に言う「フェアトレード」ですら、先進国の消費者の罪悪感をいささか緩和するための仕組みと示唆され、グリーンを標榜する企業の頓挫や伸張が厳しく観察されている。無力な人々を搾取する悪は至る所に存在する。腐敗政権も利潤追求一方の巨大企業も指弾されるべきではあろう。だが、終盤に近づくにつれ読み手をもっとも慄然とさせるのは、倫理観も公正さに対する自覚も持たない消費者こそがチョコレートのアンフェアなあり方を許しているのではないかという問いかけである。
チョコレートから富の偏在と不平等そのものの世界を味わう一冊と言えよう。後味は苦いが滋味に溢れている。訳も旨い。 |
「オオカミが来た!」 07/03/2008 早春の候、日本各地にも遥か中国大陸から黄砂が飛来する。万里の長城も海峡もハイテク技術にもそれを食い止める術はない。かつて肥沃な草原だった広大なモンゴル平原が不毛の砂漠と化していく理由を十分認識している現代人がどれほどいるだろう。私は考えてみたこともなかった。だが、一冊の本が無知に安住する脳をひっくり返した。 『神なるオオカミ』上・下(姜戎((ジャン・ロン))著 唐亜明・関野喜久子訳 講談社 2007)を読むことは一つのまったく新しい経験だったと思う。文化大革命当時の1970年代を内モンゴル・オロン草原に下放され、羊飼いとなって11年簡過ごした北京の「知識青年」陳陣(チェン・ジェン)と共に、自分もまた時空を越えて草原に赴いたような臨場感を終始持ち続けることができた。草原の民が恐れ敬い続けるオオカミに魅了された陳陣は、タブーを犯して子オオカミを手に入れ、飼育するという「科学実験」を実行する。「小狼(シャオラン)」と名付けられた一匹のオオカミは、陳陣に絶対人に屈服しないオオカミの本性を余すところ無く教える。さらに統制が取れ、老練な戦術に長けたオオカミの群れによる家畜襲撃の凄まじい死闘、補食関係にある草原の動植物の繊細微妙な連鎖、オオカミトーテムを崇敬し幾千年に及ぶ伝統を死守してきた遊牧民族の叡智、草原に侵攻する農耕漢民族と草原の生命との軋轢等々、列挙しきれないほどいくつもの局面から陳陣の体験が綴られていく。陳陣と小狼の関わりを描く部分だけでもこの上なくスリリングな動物記であるが、より大きな文脈の中でオオカミがモンゴル帝国の興亡とどのように関わり、中国歴代の王朝に如何なる影響を与えてきたか、やがて北京に戻って学究の道を歩む陳陣の歴史観が披瀝される部分のバックボーンとして、小狼が伝えることには限りがない。 この自伝的、地誌学的、民俗学的、歴史学的、環境学的(まだいくらでも並べられる)小説は、個人の体験を元にしながら33年の歳月をかけて創造された他に例のない大きな作品である。「狼性」と「羊性」の対比のみで民族性を断じることができるか、中国の王朝や諸国の群雄割拠をそう一刀両断に論じられるか、反論はいくらでも噴出するだろう。現に中国でこの書籍は国家のアイデンティティーをめぐる論争の火種であるという。だが、それでも『神なるオオカミ』は大自然を語り、人を含めた生命を観察し、変化する地球について思索する壮大な舞台であることに変わりはない。オオカミたちの生態は圧倒的な魅力を持って読み手に迫る。闇に響き渡るオオカミの遠吠えが本当に聞こえてくるようだ。 姜戎は絶滅種の再生を説くのではない。自由と不屈の魂の象徴として、ヒトの内なるオオカミの復権を示唆するのみである。人前に実像を晒さない作者は神話を書いたのかもしれない。翻訳者達はその姜戎と直接交流しながら日本語版を完成させた。読者は幸福だ。 |
「記録された市場の全貌」 08/12/2007 『築地』(テオドル・ベスター著 和波雅子/ 福岡伸一 訳 木楽社 2007)は原題を"TSUKIJI: The Fish Market at the Center of the World"という。このハーバード大学の文化人類学者にとって築地の魚市場こそ「世界の中心」であったことが、全巻を通じてひしひしと伝わってくる。彼は読者を東京都中央卸売市場築地市場水産部の奥の奥まで連れ込む。本書には築地という街のあらまし、市場の成立過程、場内の商取引慣例の仕組み、日本の水産業の構造と現況、市場に関わる人々の生活と意見、日本の食文化における水産物の意味、築地市場を巡る労働環境、魚市場に関わる言語と表象、今後の市場移転計画概要等々、築地を舞台に繰り広げられる万象とも言うべき事柄が包括的に論じられている。 著者は20年にも及ぶ築地通いから江戸前の諧謔精神を会得したものと思われる。専門書でありながら、この本からは得も言われぬ面白さが立ちのぼってくる。仲卸人の職能に詳細な解説を加えるにしても、そこには人の手振り、分単位の動き方、彼らがかぶる帽子に付いているライセンスプレートの意味、職人芸としか言いようのない素早い取引の実際が手に取るように描かれて、しかも市場全体の構造と経済活動に占める位置まで委細漏らさず扱っていながら文体が軽妙なのだ。もしこれが無味乾燥な学術用語だけで書かれていたなら、きわめて限られた読者にしか届かなかっただろう。だが、思わぬところに挟まれる具体的な人間観察と人々をめぐるエピソード、それにことば遊びの愉快さがページを先へ先へとめくらせる。著者の築地市場への愛着が研究の大原動力になっていることは明白だ。文中にも時折姿を見せるベスター氏は何と幸福な学者であろうか。翻訳者たちも彼の意を汲んで、江戸前の言葉遣いを巧みに再現している。日本社会を対象として英語で書かれた本を再び日本の読者に提供するという、メビウスの輪のような反転には、異国のものを日本語に移し替えるのとは異なる要求があるはずだ。言い回しの、用語の、語法のズレは許されない。頻出する脚注・用語解説の他に文中に差し挟まれる訳注は、夥しい参考文献渉猟の跡を留める。(決して煩わしくはない。) しかし、『築地』から読者が得るものは重い。市場施設の老朽化は否定しようもなく、(おそらく豊洲への)移転は実行されるだろう。既に当地での市場の終焉を視界に入れたこの膨大かつ詳細な築地の記録は、特定の分野に限らない人々の依拠すべき文献として長く読み継がれるものと思う。本書に消えて行くものへの哀惜ではなく、(変形は免れなくとも)継承されていくはずのシステムとカスタムへの信頼を読み取るなら、実行するのはあなた方自身をおいて他にないと読者は後を任されたようなもの。鮨をつまむ手が、ふと止まりそうだ。 |
「グローバルに考える平和と歴史」 21/09/2007 あらゆる局面で「グローバル化」が叫ばれる今日、その対極では国益や地域エゴ、民族間の対立が益々激化している。悲しいかな、わが宰相は複雑な世界と渡り合う術もなく東アジアの一国を束ねる任にも堪えきれず、その座を降りてしまった。『ピースメイカーズ −1919年パリ講和会議の群像−(上)(下)』(マーガレット・マクミラン著 稲村美貴子訳 芙蓉書房出版 2007年)は平和を招来する舵取りの困難さを、大画布の中に大胆に描ききって卓抜である。政治は熾烈な戦い以外の何者でもあるまい。その職を志すには、余程の肝の太さと精緻な策略を労する能力がなければならない。特にリーダーに要求されるのは老獪さも含めて、タフネスが第一なのではないかと本書を読みながら思った。 『ピースメイカーズ』には、第一次世界大戦を終結させ新たな国境の線引きをした欧米の三巨頭(仏のクレマンソー、英のロイド・ジョージ、米のウィルソン)を中心に、大戦に連座した各国の大立て者たちが入れ替わり立ち替わり登場し、それぞれの権益を最大限に主張し獲得しようとしのぎを削る様子が縦横無尽に描かれている。この作品を読み解くためには精度の高い世界地図帳が是非とも必要だと思う。戦場となったヨーロッパ各地の要所、バルト海、地中海、アドリア海、黒海、カスピ海沿岸、バルカン半島、トルコから中東各地、更に中国の山東半島と、章を経るごとにせわしく頻繁な地名の確認が要求される。どこで誰が何を求めているのかを辿るうち、歴史に名高いパリ講和会議とは西欧を中心とする世界秩序の、崩壊の始まりであったかと息をのみながら見る大スペクタクルドラマへと展開する。「国際連盟」の理想、「民族自決」の思想、国際会議での各国虚々実々の駆け引きが、実在した登場人物の個人的恣意とも絡み合い、ベルサイユ条約調印へと雪崩れ込んでいく様は、あたかも幾百万の屍とは無縁のパワーゲームのようにも見える。 会議に臨んだ日本代表の影が薄いこと、中国に比べても巧みな自己主張の技では見劣りがすること、主に「沈黙」の故に異彩を放っていることなどが露わである。むろん世界に太刀打ちする姿勢を「強行」であれとは言いたくない。ただ存在の意義を充分に示し他者の共感を得る雅量と力量が欲しいと思わずにいられない。1919年からわれわれはいかほど変化しただろうか。 マクミランは「ベルサイユ条約」をその後のさらなる災厄の原因とは考えていない。一刀両断にして済むほど世界は単純なものではないから。この長大で詳細なルポルタージュによって読者は和平交渉の現場に立ち会い、歴史の分岐点を目撃する好機を得る。神ならぬ身の政治家たちの仕事は公平無私とはほど遠い。権力を持つ者が利権へ走り、他に先んじようと必死の形相を示す。ここにはそのような実態も含めて、国際政治の場がどのように培われてきたのか、実に人間くさい政治家たちの行動や思惑が子細に調べ上げられ描き出されている。戦争を憂い、平和を希求するとき、まさに「グローバルな視点」を持って主体的に考えようとするなら、本書は優れた指南役となるはずだ。細部にわたるまで神経の行き届いた丁寧な訳業もそれを可能にしている。 |
「メディカル・サイエンスの揺籃期」 7/7/2007 『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(ウェンディー・ムーア著 矢野真千子訳 河出書房新社 2007年)は18世紀ロンドンの外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターの奇想天外な人生と彼の生きた時代を余すところなく描き、実に驚嘆すべき人物としてハンターを現代に蘇らせた。消毒の概念も麻酔法もないところで外科手術を行う西洋近代医学揺籃期の実態、保守的で旧弊なイギリス医学界の体質、聖書の創世記神話を越えて生命科学が萌芽しつつある様子が手に取るように分かる。ニュートンとダーウィンの間の時代をハンターは生きた。 イギリスが海外に勢力を広げた時代に、ロンドンには世界中からヒトとモノが集まってきた。ハンターが鯨、カンガルー、キリンといった凡そブリテン島には縁もゆかりもない動物の標本を作ることができたのも国力の隆盛と大いに連動している。倦むことのない情熱でヒトの身体を解剖し、それを後進に公開し、医学教育のあるべき姿を主張し続けたハンターに頑迷な伝統主義者たちが立ちはだかる様は、いつの世も変わらない改革者の宿命を示しているが、ハンターの偏屈ぶりもこれまた常道を逸している。天才的なメスさばきの一方で人心の機微には疎く、人情家でありながら怜悧な蒐集家でもあり、狙った獲物は何としても手に入れる貪欲さが崇拝者とともに敵もたくさん作った。これまでハンターが華々しく歴史の表舞台に出てくることがなかったのは、作為的に彼の業績が貶められていたからでもある。無名の患者たち、各地から集まる彼の私設解剖学教室の学生たち、それぞれに病苦も抱えた高名な当時の学者・文化人たち、そして郊外の屋敷に増え続ける動物たち、遂にハンテリアン博物館となった彼の膨大な収集品の数々。煮えくりかえるようなロンドンの喧噪を背景に、「科学的外科の創始者」ジョン・ハンターはいまわの際まで反骨を貫く。 「観察し、推論し、記録せよ」と主張するハンター流の外科教育はあの時代にどれほど革命的であったか、そして解剖を通して実践される生体内部の探索が、マクロの世界への旅に勝るとも劣らない大冒険であったこと(あり続けること)を本書は証言する。それにしても、「ジギル博士とハイド氏」のモデルとも「ドリトル先生」のモデルともいわれるジョン・ハンター像の、何と生彩に満ちあふれていることか。進化し続ける現代の医療技術、先端医学の大元にこんな破天荒な大先達がいたことを今日の医学生たちは知っているだろうか。科学的精神と宗教・倫理・社会通念のせめぎあう様も含めて、むしろこれは未来に差し出される一冊と読んだ。 |
「人類であることの孤独」 26/4/2007 20世紀中葉から今日まで、旺盛な創作で世界中の読者を圧倒し尽くしている作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスを、私は久しく遠くから眺めるばかりだった。幾多の賛辞を読んでも手に取る勇気が出なかったのは、書かれたもの全てに於ける「横溢」「過剰」「誇大」が喧伝されてきたため、読む前から萎縮していたところがある。だが「全小説集」の深紅の帯を見て、最早拒む理由はないと思った。果たして、『百年の孤独』(G・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 新潮社刊 2006年 / 原作出版は1967年、鼓訳は1999年の改訂版)に驚嘆しながら、遅れてきた読者はこの後続く筈の愉悦にほくそ笑んでいる。 ホセ・アルカディオ、ウルスラに始まるブレンディア家の系図を幾度参照したことだろう。兄弟はしばしば同じ女性と関わり、生まれてくる赤ん坊たち、引き取られる子どもたちは幾度も同じ名前を受け継いでゆくので、時として今読んでいるのは誰のことか判然としなくなる。早世する者もいれば百年を超えて生き続ける者もいる。生者のみならず死者も亡霊の形をとって物語に参入してくる。この異形の年代記に厳然とそびえ立つ幾人かの猛者や「家」に君臨する女たちがいることは確かだが、誰一人主役を演じるわけではない。しかしブレンディア一族の栄枯盛衰は神話のように底知れぬものを持つ。近親相姦の果てに「豚のしっぽ」を持つ子どもが誕生することは、予め系図に明示されているから予想出来るにしても、そこに到るダイナミズムを実感するには記された言葉を丹念に辿るしかない。 繰り返される「孤独」という言葉ほど、一見マコンドの街にもブレンディア一族の家屋敷にも不釣り合いなものはないように思える。絶えず人々が出入りし、ざわめき立つ場所である。しかしよくよく見れば多くの登場人物が救いのない己を抱え、他者との交渉を断って引き籠もり鬱々と歳月を重ねる。およそ現代の都市とも文明とも無縁なこの舞台に巣くうのが「孤独」とは。それは個人の感傷とか自意識を吹き飛ばし、命ある限り人を苛み尽くす宿命として描かれる。そして南米の多雨と旱魃をものともせず、たかだか百年の人の命を遙かに凌駕し、不尽の生命力を示す植物と昆虫の群れが背景からじわじわと前景に出てくる。ガルシア=マルケスの力業に脆弱な読み手が竦むのは、必定であったかも知れない。 |
「イランを語る声」 8/3/2006 その取り合わせによって、異質なものの衝突を予感させる題名の本『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、市川恵里訳、白水社 2006)はイランをめぐる多声的な覚え書きである。英米の近・現代小説を読み解く行為を基軸に、「自由な選択」を剥奪された知的な人々、とりわけ何重にも規制をかけられた女性たちの懊悩と葛藤がきわめて「文学的」に語られている。だが、記録されるのは辛く重々しい事ばかりではない。テヘラン大学を追放されたナフィーシー教授が開く密かな読書会に集う若い女性たちの、華やぎや恥じらいに満ちたおしゃべり、互いの嫉妬や牽制、諦観に混じる勇敢な抵抗などが、心の襞の複雑さをそのままに克明に描写される。1979年のイスラーム革命を契機に、欧米社会の趨勢とは逆さまの「反・解放」へ突き進んだ社会に於いて、文学テキストが生きる為の武器にもなり、鏡にもなり、危険物にもなるという、元々そのテキストを産みだした国々では既に失われて久しい筈の「パワー」を発揮するところを目撃するのは痛快でもある。 当然のことながら、イランを頑迷な「宗教国家」として単純に弾劾することを本書は望んでいない。国外に新天地を求めた語り手は、より強く祖国の有り様に関心を持ち自身のルーツを意識する。それは、テヘランでこそロリータやギャッツビーが、ディジー・ミラやジェーン・オースティンの主人公たちが人の想像力を突き動かすように、異郷での祖国とのあらたな対話構築を切望する声を本書は響かせている。そして個人の尊厳の剥奪を経験した女性たちの秘める、底知れぬ潜在力をナフィーシーは世界に示す。 読み手は個人を封殺する体制がイランにのみ固有のものではないことを感じずにいられない。大なり小なり、何処でも今日「不自由」が拡大しているのではないか。さらに、ナフィーシーと、読書会のメンバーの一人に『イラン人は神の国イランをどう考えているか』(レイラ・アーザム・ザンギャネー編、白須英子訳、思草社、 2007)で読者は再会できる。ここにはイランをめぐる15編の論考が寄せられているが、うち「テヘランでクンデラを読む」でナフィーシーの学生ザルバフィアンは、故意の誤訳と当局の修正によって原作とは別物に作り替えられた作品を唯々諾々と受け入れる読み手の有り様を描き出している。かつてのわが国の「墨塗り、伏せ字」が蘇る。テキストと政治の闘争は、今日も遠い世界の話ではない。 |
「アフリカの魂」 14/12/2006 数年前にフランスの友人が「私と家族はルワンダにいたことがある」と いうのを聞いた時、「あの大虐殺の国?」と尋ねかけて私は口をつぐんだ。あまりにも失敬な物言いになりそうだったので。また、後に『ホテル・ルワンダ』上映運動が起こっていることは知っていたが何もせずにいた。アフリカの地に思いを馳せるのは何と難しいことだろう。しかし、一冊の本が時空を難なく越えて事の核心に人を連れて行くことがある。『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン著 堤江実訳 PHP研究所刊 2006)はそのような作品だった。 但し、これはフツ族とツチ族の対立抗争を物語る歴史書ではないし、1994年の大虐殺の純然たるルポルタージュですらない。仲良く不自由なく愛情に溢れて暮らしていたルワンダの一家族が、突如ジェノサイドの嵐に巻き込まれ情け容赦なく殺されていく渦中に、奇跡的に生き延びることのできた若い女性、イマキュレーの体験談である。彼女は三ヶ月間フツ族の牧師の家のトイレにツチ族の7人の女性たちと共に物音を立てることも身動きもならず隠れていた。フランス軍に保護されてからも幾度も危機に瀕し、やがてツチ族解放軍キャンプを経て首都キガリへ、そして国連に職を得、結婚してアメリカへという波瀾万丈の経験をくぐり抜けていく。どの場面も壮絶で過酷なものであるのは確かだが、特筆すべきはイマキュレーの「祈り」だ。外界の悲惨を越えるもの、憎悪と復讐の連鎖を断つものとして示される彼女の「祈り」は、具体的な行為であり激しい精神活動である。トイレの中で静止した状態で一日に十時間以上も祈り続け、至福の瞬間さえ得るイマキュレーの内観が描き尽くされる。私自身はカトリックの信仰と無縁の徒であるにもかかわらず、イマキュレーの「祈り」や「神」との交感を不可解なものとは感じなかった。人間の命とは魂の働きなのかと感得させられる他なかった。 『生かされて。』は原題を"Left to Tell"という。なるほど証言するためにこの世に残されたということか。ホロコーストは過去の悪夢ではなく、いつどこで再現されるかしれない。アフリカに介入したヨーロッパ 列強が元凶ではないのかと思いつつ、ルワンダから発せられた一筋の光を見失うまいとも思う。残忍な殺人と寛容な魂。いずれもが人間の実相と言えよう。『生かされて。』を読みながら『ホテル・ルワンダ』のDVDを見た。ルワンダの苦界浄土。いずれも殺戮の狂気から10年の時を経てようやく語り出された記憶である。救済と希望のありかについて、ルワンダは万人に問いかける。 |
翻訳読書ノート30
「悪童を産んだひと」 19/10/2006 今から十年ほど前、アゴタ・クリストフの一大ブームがあったという。不明にして私はその熱気を知らずに過ごしてしまった。来日した作家の講演会に接した人々も多いに違いない。そのような喧噪とは全く無縁に、今年の夏初めて『悪童日記』を手に取り、おそらく当時熱狂した読者たちと同じような道筋を辿って私もこの作家の作品を片端から読んだ。後発の読者にも利点があったとすればそれは、今年相次いで訳出・出版された彼女の自伝や短編集も併せて読めたことだろう。 『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(堀茂樹訳 白水社 2006)は6月に、そして短編集『どちらでもいい』(堀茂樹訳 早川書房 2006)は9月に出た、いずれも薄手の美しい装丁の本である。それらは見かけも中身も『悪童日記』三部作全体のボリュームや残忍なまでに読み手の意表をつくストーリーとは乖離した掌編のように見えるが、作家の創作の軌道を明かすという意味で戦慄を覚える作品群である。とりわけ『自伝』では、一人の故国喪失者が偶然に導かれ如何にしてフランス語で書く作家となったかが、これほど凝縮することは不可能なほど短い言葉で語られる。自ら選んだとはいえ故国を永遠に去ることが母語を葬ることにもなり、難民として一旦は「文盲」になって新に異境の言語を学び始めるところから出発した作家というアゴタ・クリストフの自己表明に、読者は厳粛な感慨を持って立ち会わざるを得ない。 課せられ、引き受けた言語で書かれた作品群があの類い希な戦争譚、あるいは第二次大戦後の中・東欧の運命譚だとしたら、経済的繁栄を謳歌する北半球西側陣営のいずれから産み出されたものとも異なる過激さに裏打ちされていることの意味が理解出来る。そしてあんなに面白く興奮しながら読破した『悪童日記』が何故『二人の証拠』『第三の嘘』、また『昨日』、そしてこの短編集『どちらでもいい』と進むに連れてますます引き締まり、かつ荒涼とした絶望感に満たされていくのか、小説に先立つ戯曲集『怪物』に漂う不条理の笑いさえ希薄になっていくのか、諒解できるのではないだろうか。それを私は失望とは感じない。極端に少ない言葉の喚起する状況・情景には、消費されるものとしての昨今の文学作品には望めないものが見える。過酷な生の真実、ともいうべきものが。仮にこの先もう大部の新作発表はないとしても、アゴタ・クリストフは一過性ブームの対極をなす。難民が生まれ続けているこの世界において。(『文盲』以外、アゴタ・クリストフ作品は全て早川書房刊。) |
翻訳読書ノート29
「グーグル未完の物語」 25/8/2006 |
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「象徴の迷宮」 13/8/2004
『ダ・ヴィンチ・コード』上・下(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳 角川
書店 2004)に捕らえられて数日を過ごした。読んでいる最中は先を知り
たいという衝動に駆られて他のことは手に付かず、読み終えると角川書
店の専用ホームページ、著者のオフィシャルサイト
の隅々までを閲覧し、舞台となるルーブル
美術館、ウェストミンスター寺院、ロスリン聖堂、そしてダ・ヴィンチ
の作品画像を飽かず眺め、しばし「ダ・ヴィンチ・フリーク」となって
迷宮をさまよい歩いたと言うほかない。
確かにこれは魅惑的な本だ。キリスト教に詳しくない人間も充分ミステ
リーとして楽しむことは出来るが、もし僅かでもキリスト教に通じ、キ
リスト教文化の歴史に関心を持つ読者であれば、何世紀にも亘って人々
が「信じ込まされてきた」神秘の解明という迫真のスリルを味わうことに
なるだろう。その意味では「聖杯」の象徴するものは何かという問いも、
「聖杯探求」の情熱も読み手によって非常に異なるものとなる。
正直なところ、私は象徴の謎解きと追いつ追われつする登場人物たちの
物語に夢中になりながら、彼らの「動揺・驚嘆・感激」に同調できない
冷めたところがあるのを自覚していた。物語の最後に至っても遂に満足
すべきカタルシスを経験したとは言い難いのである。周到な設定とカト
リック教会をめぐる博覧強記の細部構築に圧倒されながらも、人間心理
の複雑さが同じほど書き込まれているとは思えなかった。狂言回しとな
るハーヴァード大学宗教象徴学教授ロバート・ラングドンよりは異形の
殺人者シラスに惹かれたほどだ。
それでも尚、小説という器の可能性に私は目を見張る。如何に優れたも
のであれ象徴解読の学術論文を世界中の一千万人にも及ぶ人々が読むだ
ろうか。物語の中に溶かし込まれた時、キリスト教徒も異教徒も改めて
神秘の前に引き寄せられるとしたら、ことばの提示方法と人心掌握の謎
の幾ばくかが『ダ・ヴィンチ・コード』から見えてくるように思えてな
らない。原書出版から一年余りで日本語訳が出せるその素早さにも敬意
を表しつつ。
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「日本と世界の距離」 25/6/2004
村上龍の『イン ザ・ミソスープ』英文版(ラルフ・マッカーシー訳 講談
社インターナショナル 2003)を読んだ。今夏の映画公開を前に新装(日本
語)版が店頭を賑わす『69 sixty-nine』で大いに笑った後だった。切なく
も輝かしい1969年の佐世保から、一気に30年後の新宿歌舞伎町の夜へ。
長崎弁から無国籍英語へ。片や<笑い>、片や<サイコ・スリラー>と
手法は違っても、作者が読み手を惹きつける強烈な力業は通底している。
海外の読者にはどのように受け止められているのかネット検索してみると
『イン ザ・ミソスープ』英文版は世界中の1224作品を批評するサイト、
“the Complete Review”
では「発想の妙はあるが筋立ては荒唐無稽」として酷評(ランクB-)されて
いる。またそこから辿れるいくつかの新聞書評欄では賛否相半ばしている
のが分かる。いずれも従来の歴史・伝統を色濃く伝える日本作品にはない
世相・風俗への大胆な切り込みには快哉を送りつつ、提示されるビジョン
がニヒルで空疎だと失望を述べてもいる。同姓だが無縁のハルキ・ムラカ
ミとリュウが如何に異なるかを解説するものもある。全面的賞賛にはほど
遠くとも、紛れもない同時代の作品として率直な反応を引き起こしている
ことは確かだ。
『イン ザ・ミソスープ』に描かれる「内にこもる日本」がFrankという他
者に象徴される「外気」に触れた時の脆弱さや、Kenji という言語・文化
の仲介者を通して検証される様を英語でたどると、この汚辱の中にわが国
の現実がよく凝縮されていると感じる。英語版には翻訳不可能な日本語が
多数混じる。Bon-no(煩悩)論争を始め、日本語をそのままに投げつける
不敵さは、他国の読者に相当不可解なインパクトを与えるのではないだろ
うか。ただ「味噌汁」のなんたるかも知らない人々には、この題名の含意
が伝わるかどうか怪しい。しかしいつもながら現実世界での驚愕すべき事
件の数々が既に村上作品の中にあったことを思うにつけ、そもそも歌舞伎
町に日本の表象を読み解こうとするこの作家には日本と世界の距離を超え
ていく軽快さを感じる。海外での忌憚ない批評に晒されることから日本の
小説が鍛えられるだろうことは間違いない。
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文庫になった『ユリシーズ』 24/10/2003
文庫版の『ユリシーズI・II』(ジェイムズ・ジョイス著、丸谷才一・永川玲二・
高松雄一訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ)が出た。朝、満員電車で広告を見
て夕刻本屋に立ち寄ると、平積みのIはIIよりだいぶ減っていた。バラして買う
人がいるんだ!全四巻が揃うのは2003年12月末とか。
2004年6月16日は「ブルームの日」から丁度100年目。アイルランドのダブリンで
は前後四ヶ月間お祭り騒ぎになるらしい。(ReJoyce, Dublin2004, Celebrating Bloomsday 100 サイトをご参照下さい。)
ジョイスの激しい愛憎の対象、彼の全作品の舞台、"Dear, Dirty, Dublin"(愛
しく汚いダブリン)には世界中から読者が訪れる。ジョイスを愛読することにか
けて日本人は他国に引けを取らない。『フィネガンズ・ウェイク』(柳瀬尚紀訳,
河出書房新社、1991)ですら翻訳してしまうジョイス贔屓の言葉好き。改訂が重
ねられた『ユリシーズ』を持ち歩けるとは有り難い。
電車に揺られながら読むブルーム氏はさらに馴染み深いキャラクターに感じられる。
どの章から読み始めても構わないような作品だから、その時の気分で「テレマコ
ス」を、「カリュプソ」を、「ナウシカア」を。物語の時刻に合わせて読んでも
いい。そして【訳注】の詳細なこと。作家と学究のコラボレーションは痒いとこ
ろに手が届く。実に各巻の三分の一は【訳注】だ。
あらためて「なんて面白い小説だろう」と思う。下卑たことも高尚なことも一緒くた。
かつて論文制作のために青息吐息で読んだ日々が蘇る。英語の語彙の大方を私は
Ulyssesから学んだ。今度は楽しみながら読む『ユリシーズ』の豊饒に感嘆する
ばかりだ。今なら分かる。あの頃、Ulyssesは繰り返し読んで初めて賞味できる
筈だと思った。その通りだということを文庫本が証明してくれている。
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『朗読者』と「翻訳者」 17/2/2003
翻訳者とはどのような存在だろう。私は目の前にある『朗読者』 (ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮クレストブック)
を見つめながら問い直す。この本を読むのはこれでもう三度目だ。初 めは夢中で何も考えずに、二度目は伏線の巧みさを確認しながら、そ して今度は細部にまで神経の行き届いた端正な文体を味わいながら読んだ。
一旦読み始めるとその都度、途中で巻を措くことが出来なくな る吸引力を備えた小説。原作の重い主題と軽快なテンポをストレス無
く読者に手渡すことに成功した訳文の故に、『朗読者』が日本の読者 を魅了し続けているのは確かだと思う。 『朗読者』が魅力的なのは、ナチスドイツの犯罪をめぐる戦後世代の
葛藤を歳の離れた恋人たちの運命に重ねた設定もさることながら、こ の作品が「ことばを読むとはどのような行為であるか」という根元的 な問いかけを含むからだ。「文盲」である苦しみを、この本を読む前
に誰が想像できただろう。黙読と朗読の違いにも読者は気付かされる。
ことばが音声を介して伝えられる時人が経験するのは、孤立した営為 である「読書」とは異なる、きわめて濃密な他者との関わりに他なら
ない。優れた翻訳者に助けられて(助けられていることさえ意識せず に)日本の読者は、ドイツ流の思考と感性が衝突しせめぎ合い止揚さ れていくところに立ち会う。日本語文化の中では滅多に起こらない個
の厳しい戦いがそこにある。 私はドイツ語が読めない。これから小説が読めるくらい達者になるま でドイツ語を勉強することもおそらく出来ない。もし翻訳者がいなか
ったら、私はシュリンクの作品とは永遠に出会えなかったはずだ。翻 訳者は読者と異文化の間に橋を架ける。このように堅固で質実でしか も優美な橋があるなら、人は幾度でも異世界間を行き来するだろう。
翻訳者の果たす役割は、朗読者に似ているとも思う。異言語のテキス トに「声」を与えるのは翻訳者だから。
翻訳読書ノート16
翻訳読書ノート14
翻訳読書ノート6
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これから出来れば毎月、一介の読者として享受する翻訳作品について 短文を書き綴りたいと思う。英語文学に関する話題が多くなるかもし れないが、いろいろな場面で出会う作品を取り上げ、あらためて翻訳
という仕事・技の持つ意味に思いをめぐらせてみたい。