風のたより


11. 川風


自由になりたくて孤独になりたくない
放っておいてほしい 見捨てないでほしい
望みはすばしこく何処へでも毒をまく
やがて自分の飲む水とも知らないで
誰にも置き去りにされたくはない
誰をも置き去りにさせたくはない
我が身が可愛いと心は揺れる
あてにならぬ地図を持ち ただ立ちすくんでいる
もう風にならないか
ねぇ風にならないか

中島みゆき  「風にならないか」


明るい日の光に誘われて、気の向くまま歩き出したらこんな所にたどり着いていました。神田川にかかるお茶の水橋の欄干にもたれ、川風に吹かれながら眺めていると、塵芥を積んだ平底船がゆっくりと行き交います。土手の緑の中でひときわ鮮やかなのは白いはなみずき。つつじの季節には少し早いようです。「水がずいぶんきれいになったね」と語らう声が背後を通りすぎていきました。ここを通る人たちは皆、ふと川に目を向けるのでしょうか。繁華な街にぽっかりと開いた空間。聖橋の描き出すアーチが空と水とを結びます。何度見ても飽きない風景。忘れがたい場所。憧れと失意、野心と孤独、勤勉と虚無、争いと和解、焦燥と理性。そう、この街のこの橋の上を何度も何度も行き来しながら私は自分と折り合っていく術を身につけたのかも知れません。駅前でアジ演説をしていたヘルメットや拡声器は消えました。スクランブル交差点の信号が青になるのを待ちかねて、アテネフランセへと急いだ夕刻。アルバイト先の巨大な病院へ人波を押し分けながら向かった雨の朝。寂しい懐を抱えて古本屋街へと踏み出した暑い昼下がり。人と出会い、人と別れ、人とすれ違った街角。今も沢山の若者たちが行き来して、似たようなことを繰り返しているのかもしれません。多分。でもここは思い出に耽る場所ではありません。今吹く川風は今のもの。聖橋にかすかな微笑みを投げかけて、私はまた歩き出します。定型を離れたことばの連なりを心に沸き立たせながら。



静かな呼びかけ

これはなんと静かな呼びかけだろう ベルも鳴らない ノックもしない ただそこにいることを黙って 点灯しているだけ 人が通りかかれば立ち止まるかもしれない 一晩中誰も通らなければひっそりと消え去る 余り静かなのでいないのと同じ

かすかに身構え 交信の用意だけして 私はラインをつなげている 自分だというとを忘れてしまうほど ただそこにいる OnとOffとの遙かな違い 知っている人には分かるだろう 知らない人には分からない ネットで出会う者たちのいることを 静かな夜にことばを求めて あそこにも ここにも 黙って呼びかけている 一つの存在が沢山あることを

ベルも鳴らせない ノックもできない 何もできない者たちの無言の呼びかけ あまりにも静かで気が狂うほど ことばを求める者たちの熱 今宵また街角に立つ女のように 私はネットに出ていく 一瞬誰かにつながれば もう何も要らない 打ち出すことばだけが 闇の中を流れていく

私のもとにことばが訪れるのを待って あと少し あと少しと モニターを横目で見ながら 私は自分への手紙を書いている そして訪れの無かった今宵の立ちんぼを止め そっとマウスをクリックする Off line and shut down 何事もなくラインが切れる あまりにも静かな呼びかけに 応える人はいなかった

初めての口紅

それは五月 18の頃

私が見返す 大きな鏡

片手に持った口紅は 真新しくて冷たくて

あの学生に会うだろう 地下実験室のあたりで

心が躍った 虹も見ずに

指はふるえた 薄桃色をさすときに

どんなに呪ったことだろう ニキビのクレーターなんて

とても勝ち目はない 娘たちの大星雲

本当にお化粧を? 鏡の答えは勿論!

それは五月 18の頃

口紅を握って 一人前の女になる気

ダイアローグ

--ママハケイタイワカラナイ --ママハケイタイワカラナイ どうやって録音したの こんなこと 消してちょうだい早く お願い --チャクシンハコノメロディーネ --セリブレーションガイインジャナイ うるさいわよそんな音楽 普通ので結構 電車の中で迷惑だから 戻しといてね --メールモデキルヨナニカオクロウ 無駄なことしなくていいの メル友なんかいないわよ E-mailだけで十分だって --ホラミテゴランオモシロイデショ いいってば それよりどうやって電話かけるか忘れたわ どのボタン押すんだったっけ 短縮ダイアルは --マニュアルニカイテアル そんなもん面倒だなぁ 電話の十倍くらい重いじゃない --イッペンヨンダラオボエラレルヨドンドンボタンオスダケダモン --ネェカワサキッテヒトシッテルデンワキタミタイダヨ 知らないそんな人 間違い電話よ消しといて ピーピー言ってたっけそういえば 携帯どこか探してるうちに切れた --ナンデコンナノカッタノ --ツカワナイナラムダジャン --ママハケイタイツカエナイ --ママハケイタイツカエナイ

女友達

今日はメールが三通 郵便一通 どれもこれも女友達 ニューヨークではキャロリンが 昇進をふいにしかけている 上司の嫉妬 ブラックメール どんな潔白証明文書も 一旦流れ出した川を堰き止められない 彼女のキャリアは濁流の中で 孤塁を守る巌のように 逆らい抗い 必ず戦いに勝つと誓う たとえニューヨークを離れても 彼女を認める人たちのいるところで 何度でも立ち上がると そう繰り返す デンマークからインガが テストメールを送って寄越す 息子達の手助けでネットに復帰 コペンハーゲンの次男坊は 恋人と別れたついでに 愛用のパソコンとも別れ それを母に送ってくれた パリから戻った長男坊は 共に過ごした一週間に 彼女の心をたっぷり満たし 幸せということばを引きだし おまけにパソコンの設定をして あっという間にスウェーデンへ飛んでいった いずれ劣らぬ孝行息子 夫はもう戻ってこないが 息子達はいつまでも母のもの トーキョーのみよこは 絶叫混じりのため息を 男達のふがいなさ 男達の頼りなさ 保身のことしか考えない 組織にからめ取られた 意気地なし 今までの苦労も水の泡 あれだけ働かされてこのざまよ どこかにいないの男らしい男は あたしをほれぼれさせる切れ者は あきれ果てたわ疲れたわ もうどうでもよくなった 今度という今度は 絶望的 ポストマンが運んだ封書を開けると ハマのゆうこから 明日のコンサートにいらっしゃい 心にしみるシャンソンを歌うわ ピアニストは本物よ お店は五十席 満員かも知れないから気を付けて 旧い女友達も来るはずよ きっと会えるわ あんたの心が哀しいなら 愛と涙とパワーが欲しいなら あたしの歌を聴くしかないわね 今じゃ常連のファンがいるのよ あんたいつまでなにしているの 歌って上げるからいらっしゃい 女達 女達 年をとる毎に刻まれる 心の襞の深さ 顔の皺の潔さ 胸の谷間に涙をためても それは潤いの泉だね 抱きしめる者たちに与えるための

橋の上

みどりの水に映った空は 岸辺のざわめきを溶かし込み 海に向かってゆっくりと 逆さに街を流してゆく 雲を見上げぬ者たちよ 水をのぞかぬ者たちよ 窒息する前に戻っておいで 橋の上にも橋の下にも おまえを包む風が吹く 眉根を寄せる者たちよ 角突き合わす者たちよ 血を流す前に来てごらん 懐かしい人がすれ違う 柔らかなことばが響く 昨日も今日も明日も 変わらない水の流れを 橋の上から眺めていると 忘れていた気持ちが蘇る ああ とても愛していた 愛することを愛していた あの甘やかな夢の日々は 嘘ではなかったと 本当は今もここにあると おまえを映す水が教える おまえを包む風が囁く 川面の光が心にしみる


次のページへ

風のたより 目次に戻る

ホームに戻る(Back to Home)