9. 今日の風
そんな時代も あったねと
いつか話せる 日が来るわ
あんな時代も あったねと
きっと笑って 話せるわ
だから今日は くよくよしないで
今日の風に 吹かれましょう中島みゆき 「時代」
--E-mailが運ぶもの--
二十年以上も前の歌がふいに口をついて出るのは、大なり小なり抱えている現在の苦しみや重りを溶かしてしまう妙薬を得たいと願うからでしょうか。表面ではいつも愛想良く笑いながら、そして元気よく歩き回りながら、心の中には誰にも言えないトラブルを淀ませている人が案外いるのではないかと思います。私などそのよい例です。E-mailを愛用し始めてどのくらいになるでしょう。初めは物珍しく、次第にそれが生活の一部となり、気がつけばもうなくてはならない通信手段になっています。電話や書簡と使い分けられそうでいて、実のところE-mailは独自の特質を持つ別種のコミュニケーション手段であるように思えてなりません。ビジネスにもプライベートユースにも威力を発揮する一方、それが元で起こるすれ違いや諍いなど「ディスコミュニケーション」(discommunication)--意志不通(?)--を引き起こす元凶にもなるのです。E-mailはことばを人の心から心へ直送しすぎるからかもしれません。幾人もの人とそれぞれの目的でメールを交換しながら、「世の中に絶えてメールのなかりせば春の心はのどけからまし」と思わぬでもありません。とはいえ今更これを放棄すのは不可能です。おそらくこれからメールをめぐる悲喜劇が誰の身にももっともっと起こるようになるでしょうし、小説や映画の題材も提供することでしょう。(映画"You've Got M@il"はハッピーエンドに終わる現代のお伽噺でした。)大袈裟でしょうか。でも、メールが涙や笑いを運ぶものであるのは本当です。メールのせいで失意のうちにあるとき、不如意な状況にあえぐとき、また思いがけない幸福感を味わうとき、私の心の中にわきあがるのは上記の歌です。E-mailにまつわる短歌をまとめてみました。
闇の中ラインで届く苦言などどこ吹く風の微笑かな
軽やかな着信音に誘われメール開けば夜更けの出会い
来ればまた心凍らすメールなり音信不通願う我有り
これよりは私信不要といなされてビジネスメールに蜜を一滴
放置するメールの送り主ならば如何に非情と我を誹らむ
鮮やかな手になる文を送りたき乙女の如く打つメールあり
対面に言えぬ憤怒をデジタルの信号に変え集中砲火
国を越えことばも破り届きたるメールにこもる孤独の叫び
今様のお伽噺はパソコンで心通わす夢を語りぬ
読み終えた本の作者にメールして翌朝届くナイーヴなレス
世の中に嘘とホントがあるならばメールどちらに仕分けいたさむ
突然の遮断に悩む人に向き我の痛みを語りたきかな
ラインにて巡り会いたる佳人なりオフの出会いで消え去る不思議
歌詞もまたマシンで打つと毅然たる叙情の名手言いて肯う
投稿をする暇あれば研究に精進できるはずのパソコン
行き詰まりデジタルペット借り出して送る罪無きメール哀しき
練習と隣の部屋からメールする娘と出会うインターネット
慣れたはずメール無い夜にエディターを開き心を書き散らす我
どの人も一人で向かうモニターの先に求める人があるらし
ちぐはぐの思い交差す蜘蛛の巣(web)は人の憂いをからめ取るなり
雛の夜は旅にしあればメール無くいずこの宿に一人隠りぬ
果てしなき沈黙のあと鮮やかにメールラリーが宙を行き交う
いずれ止むラリーと知りつその時はことば織りなす至福に浸れ
短信はPDAで地下鉄の中に記すと読む懐かしさ
弟に電話する夜は姉になり交わすことばにメールは要らず
妹の寄越すメールに「姉様」とかしこまられてモニターうるみ
的確なことば重ねる友なれば女同志のメール頼もし
日本語をローマ字で打つ習慣に無駄なきことば尊しと読む
長々と書いたメールも短信も読む人あればの故と知りませ
誰彼に斯くも長きを送るわけ無しと知らでか笑いたまえり
春浅き汐の輝き海原の広がり見ればメールいかほど
笑顔見て心満ちたり今暫しメール忘れて書に戻るべし
メールには語らず胸に秘めており旅立つ夢を聞く眩惑や
抑制を知らぬ書き手はおぞましきことば重ねるメール破棄せよ
春雨のしとど降る夜は宛先のないメール打ち消去して寝る
モニターに向かうときには一人なり誰憚らずことば紡ぎぬ
二行だけ早朝便を受信して深夜メールの届けるを知る
一滴の香水まといオフに行く乙女ら集い我は透明
三月は別れ行くとき「再見」とメール閉じなむ振り向きもせず
映画では美男美女さえメールにて思い語らうニューヨークなり
唐突な会話メールがあればこそ前置き抜きで始まり終わる
人中で友と見交わすまなざしは「読んだ?」「ええ」との暗号もどき
一通のメール届きぬその日より一つの時代明けたりと知る
メール読みメールを書いて暮れたよと一日を語る人を嗤えず
渋面で「メールご遠慮願いたい。」ことば信じぬ人と働く
携帯は軽やかなるにことば打つ機能加わり持ち重りせむ
考える速度でキー打つ悲しさは言わずもがなを省けぬメール
ビジネスは昼間夜更けて孤に還り同じキーからこころ打つなり
ノート型二つ重ねて脇に置きデスクトップに広げるメール
束の間の静けさ今日はメールさえ休日となり一人ぽつねん
異国にて初めて受けたメールなり送り手に会う真昼の祖国
交換の名刺に読めるアドレスを登録すれば親しき錯誤
オフレコの但し書き付きメール受け削除ためらいフォルダーの奥
数あれど嬉しきメールその名読み標題眺め暫し開け得ず
現世に片想いなることば有りメールバランス片方に寄る
モニターに別れを告げて爛漫の花浴びにゆき風に吹かれむ