このサイトについて / An Intorduction to this Website (English)
ようこそKeiko Kitada's Homepageへ。 ここはKeiko Kitadaの個人サイトです。内容は主に詩・短歌・俳句など創作、エッセイ・紀行文・書評など各種散文、東京の市街地や植物などの写真、英語教育の現場の報告などです。表紙ページ脇の「更新・短信」をクリックすると最新掲載記事の紹介と共に、著者の近況・所感などをお読みいただくことができます。内容全体の配置はサイト紹介でご確認ください。 最初にホームページの構想を得たのは、1997年に在外研究のため滞在していたアメリカのバージニア大学で、図書館主催の「インターネット公開講座」に出席した時です。学生・教職員・市民に無料で開催される講座では、情報専門の図書館員が分かりやすくHTML(Hyper Text Markup Language)の仕組みを解説してくれました。まっさらのエディターに僅か数語のスクリプトを書き込むだけで、ブラウザーに色つき文字が表示された時には、心底驚きました。 一般の人間が自分の書いたものを自由にネット上に公開できるとは素晴らしい、とワクワクしたのを覚えています。印刷物の配布という形を取らずに文書を共有することは全く新しい発想だと思いました。同時に、「インターネットは、玉石混淆の資料が全く分類されずに床にぶちまけられた図書館のようなものだ」と言っている大学院生のことばも耳に残りました。個人であれ組織であれ、信頼できる情報を提供することが、大小を問わずサイトを公開するものの責任であると痛感しました。そこには未だ、個人サイトを持つことが珍しく斬新なことだった時代の気負いのようなものもあったと思います。 それから約9年が経過し、インターネットをめぐる状況は大きく変わりました。モデムの接続音に耳を澄ましながら自分のパソコンがネットに繋がる時のスリルを味わっていた日々は既に遠く、どんな大容量の画像も瞬時に表示されるブロードバンド接続が日常の時代へ。誰でもいつでも気軽に始められるサイトとして、ブログ(weblog)が普及し、サイト公開自体には何の珍しさもなくなりました。今でもまだ、私がこんな形でこのサイトを維持している理由は何だろうと時々自問しています。 1997年当時を思い出すと、バージニアで生活しながら英語で書くことはとても自然でした。幾度目かのアメリカ滞在だったので、日本に帰れば直ぐにその言語感覚は失われてしまうだろうということも予想できました。毎日使っていないと、ことばはさび付きます。何とか英語の感覚を維持するにはどうしたらいいか考えた時、「毎日使えばよいのだ」という単純な答えが出てきました。毎日欠かさずに英語を書き続けること、しかも自分だけが読む日記などではなく、インターネットで公開していけば読み手を意識した緊張感がことばに張りを与えるのではないだろうかと予想しました。現実にはとても毎日とはいきませんでしたが、公開を原則とした文章を日本語と英語の両方で書き続けることで、書く習慣を失わずに生活しようという決心は未だに失われていません。それがこのサイトをなるべく日・英両語で書くスタイルの理由です。日本語であれ、英語であれ、インターネットでことばを鍛えられたら良いなと思って参りました。それが「インターネットでことばを磨く」というモットーの始まりです。(詳細はエッセイ「窓越しの対話--インターネットでことばを磨く」をご覧下さい。) もう一つ、1997年のバージニア滞在で得た大きな収穫は、創作する習慣の復活です。誰でも青春時代には詩人だといわれています。でも、年を取るにつれてみずみずしい感性を経験が押しつぶし、何かににうちふるえる心や憧れる気持ちを人は忘れるもののようです。バージニアで参加したcreative writingのworkshopで、私は本当に久しぶりに「論証」だとか「根拠」だとかいうものから自由に思い出すこと、感じることを文字に記す自由を取り戻しました。もしかするとそれはとてもセンチメンタルな大人らしくない態度かもしれません。ですが、いくつになっても人がこころの中を表現してみたいと思うのは自然なことではないでしょうか。ウェッブ上にそっと書いたものを置くくらいなら許されるのではないかと思いました。 もちろん実際にはウェッブ上に何を書いても良いというわけではないことを幾度も思い知らされてきました。書くことの責任の重さは書く毎に増えていくようです。でも、書く習慣を得た者は、書かずにいられなくなります。自由と責任の狭間をさまよいながら、何を書くべきか、何を書かざるべきか思い悩むこともまた楽しみの一つです。そして、自分の書いたものが思いがけずに誰かの目に触れ、予想もしなかった反応をもたらすのもまた事実です。これは良くも悪くも、インターネット上で個人サイトを公開することの宿命でしょう。 書くことから始めたサイトですが、いつの間にか画像も随分増えました。デジタルカメラの普及と画像処理ソフトのおかけで、それまで写真に縁のなかった私に被写体を観察するという習慣ができました。画像を前にした時には、頭の中でことばだけを弄んでいる時とは異なる発想があります。とりわけ、街の写真と動植物の写真からインスピレーションを得る機会が多くなりました。自分の生活を全く異なるアングルから再検証しているような気がします。ただ、夢中で写真を撮り、撮ったものは何でも公開しているるうちにこのサイトは個人のものとしては膨大な容量となってしまいました。計画性がなかったことに気付き、あらためてサイトのデザインを直そうと思い立ったところです。書くにしても画像を扱うにしても「データの垂れ流し」にせず引き締まったものにしなくてはと、削っていく作業が不可欠であることを痛感しています。 時々はネットから離れることもありますが、こんな風にしてパソコンに向かうことが私の生活の大切な一時となりました。文章や画像に向き合う時間は、すなわち自分と向き合う時間でもあります。機械は味気ない存在とは思いません。自分のサイトは確かに自分の幾ばくかを表しているように思います。できる限りここで自分を解放し、思索し、創作し、ご訪問のみなさまと何か共有できるものを得られたら、これに過ぎる幸いはありません。 バーチャルリアリティと蔑まれることも多いインターネット上の試みは、幾多の欠点を抱えつつも現代社会に定着しました。これから先どのようにインターネットが展開していくのか予想も付きませんが、遠くで批評だけしているより、現場で体験していくことに意義を覚えます。たまたま出会ったこのシステムをますます愉しんでいきたいと思います。 March 2006 (1952年東京生まれ。専門は英語英文学、英語教育。)
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