初出 田崎清忠主催 Writers Studios 2018年 6月 22日 |
散策思索 02 人の声 |
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「人の声」 K.Kitada 私は東京に生まれ育った。一度だけ父親の転勤で北九州市門司区に2年半ほど住んだことがあるのが唯一の例外で、あとはほとんど東京の各地を転居して歩いた。両親のそれぞれの親の世代の片方は新潟県長岡、もう片方は島根県松江から(一直線というわけではなく各地を転々とした後に)東京へ来て住み着いた。だから三代続く江戸っ子などというものではない。ただ、生まれたのがこの土地なので、茫漠とした区切りながら東京が自分の故郷だと思っている。 自分の体得していた言葉が「東京弁」だと気づいたのは、北九州に転居してすぐのことだった。小学校5年生だった私は、北九州市門司区の小学校に転校した。すぐさま言葉の違いによる「よそ者」としての洗礼を受けた。語彙が違う。イントネーションが違う。間の取り方も違う。一年生だった妹は怖気づいて、一時期登校拒否になった。調子の良い弟は違うことを売りにしてすぐさま仲間をこしらえた。私はその中間で、慎重に言葉を選びながら級友に近づき、こちらから違う部分を取り込んだ。弟妹のなかで私だけが曲がりなりにも土地の言葉を真似して身につけた。例えば嫌なことを「好かん」と言うのは門司では当たり前の表現だったが、私にとっては非常に新鮮な語彙だった。 再び東京へ戻り品川区の中学校に転校したら、私のイントネーションがおかしいと男子生徒に笑われた。今度はせっせと身につけた北九州の言葉を洗い流す番だった。さすがにあっという間に元に戻ったが、今ならさしずめ「空気読みすぎ」と自虐的になるところだろう。子供は率直だ。違うものを違うと言ってはばからない。 次に言葉の違いをヒリヒリと感じることになったのは、結婚して青森県出身の義理の両親と同居するようになった時である。東京都墨田区押上で生まれた私には、その土地で長く指物師をしている伯父叔母がいた。私たちの家族は昭和の中頃、押上から郊外の三鷹市へ転居し、世田谷区経堂に移り、それから九州へ行った。引っ越しても子供の頃はしょっちゅう叔父叔母の家へ遊びに行った。そこには威勢の良い商人・職人の言葉が飛び交っており、叔母がモノを言うとなんでも叱り飛ばしているような勢いがあった。母方の山手言葉とはえらい違いだ。母方の親戚に行った時と、押上の叔父叔母の家へ行った時では話し言葉がかなり違うことに徐々に気づきながら、私はどちらにも馴染んでいた。そして嫁いだ先で、親しみを込めて下町弁で義理の両親に接近しようとしてピシャリとはねつけられたのだった。 一年半前に94歳で亡くなった義母は生涯青森県の南部地方のイントネーションを洗い流すことはなかった。その点同郷出身である義父は比較的若い頃に上京したいきさつもあり、むしろ深川で大工をしていた父親の影響下、下町の「べらんめえ口調」が身につき、南部訛りの痕跡を探すことさえ難しかった。義父は戦争中軍属として中国に渡り、中国語を身につけて通訳のようなこともしていたというから、言葉の音を身につけたり洗い流したりするのが巧みだったのかもしれない。義母は私の言葉遣いやモノの言い方がぞんざいで年長者に対する敬意に欠けていると指摘し、そのような語りかけ方をして欲しくないと和服姿で正座したまま私に言った。「お互いに丁寧な話し方をしましょう」と宣言し、ずっと「ですます調」で私と話をした。緊張感を持った言葉遣いをすることが諍いなく一緒に暮らすための基本なのだと私は諭された。 そう宣言された時には流石に驚いた。よもや私の「東京弁」が他者に不快感を与えていたとは思いもしなかったからである。友人に話したら笑われた。「そんなことも知らなかったの?当たり前じゃない」ときた。言葉に無頓着すぎたと私は頭を抱えたが、そこは変わり身の速さが身上。義理の両親に対して「丁寧語モード」に切り替えることにやぶさかではなかった。 郷にいては郷に従えは、何も海外に行った時ばかりの金言ではない。同じ国土にあってもこの国にはあまたの方言が存在しそれぞれに土地の人々の誇りがある。様々な土地からの人々で成り立つ東京の下町言葉もその方言の一種に過ぎない。語彙選びだけの問題ではなく、言葉を言い放つ時の勢い、語尾の上げ下げ、発声にも特徴がある。別の土地の言葉で育った人には暴力的とすら思えても致し方ない。そのことに私は二十代後半になってようやく気づいたのだから呆れたものである。「あのさ、それでさ、だからさ」などと言われた年配者が気を悪くしないわけがない。 私は長年英語教員として働いてきた。毎日のように教室中に響き渡る声を出しているといつしかそれが習い性となり、帰宅してからも無意識のうちに大声を出していることがあったらしい。それも亡夫に指摘されて初めて気づいた。「そんな大きな声出さなくても聞こえる」と何度言われただろう。今ではそう言って私の声のボリュームを下げさせる人も、私の下町言葉をたしなめる人も、べらんめえで私をからかう人ももういない。思い起こせば、時々に「お前の話している言葉、声はこんなふうだよ」と指摘されて私は自分の姿を発見してきた。 海外で「あなたはどこで英語を学んだのですか?」と聞かれることがある。そう言われると私は言葉に窮する。一所ではないからだ。北九州で入学した中学の先生は毎回小テストをした。小さな塾では一字一句違えずに教科書の文章を暗記してノートに書かせられた。転校を繰り返しながら「どこの学校に行っても英語は同じだ」という感慨を持った。高校では受験勉強に精を出し、英会話学校にも熱心に通った。大学に入ったらアメリカ人の先生から「文法に合わない英語を話すと軽蔑されます」とたしなめられ、社会人となってからは訪問先のアメリカ各地、イギリス、アイルランド、カナダ、ニュージーランド、どこへ行ってもその土地の人々の言葉を理解しようと耳をすませた。かくて多様な音や言い回しがなだれ込んできて現在に至る。 言葉と声は人のアイデンティティーそのものだろう。人に語りかけるとき、語りあう時、私たちは自分以外の何者にもなれない。ここにいない人を思い出すとき、私はその声を呼び起こす。特に、私を呼ぶ声を。それぞれのイントネーションが懐かしい。
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