初出 田崎清忠主催 Writers Studios 2018年 9月 3日 |
散策思索 05 「 疾走する人々 」 |
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「 疾走する人々 」 K. Kitada 夏の終わりに、10年以上音信不通だった旧友と再会した。彼女は駅前の駐車場で私を待っていた。「運転、するの?」と意外そうな私の言葉に、「そうよ、母が遺した新潟の家に通うために50過ぎて免許取ったの。便利よ」と自信にあふれた言葉が返ってきた。ペーパードライバーに甘んじてきた私は、ハンドルを握る友人を尊敬の眼差しで見つめた。 運転が好きな人は、おそらくどこまででも車で駆けていけると思っていることだろう。そして実際に踏破した距離を誇り、同好の士とドライブの話で盛り上がるに違いない。車と一体になって未知の土地を疾走する快感や達成感はいかばかりか。アメリカのロードムービーを見ていると、車を運転することが生きることだと思わせるような場面が多い。 ロードムービーとしてはちょっと異色だが、『ロング、ロングバケーション』(原題“The Leisure Seeker”)(2017)というアメリカ映画を見た。異色なのは運転するのがタフな若者ではなく進行した認知症の男性で、同乗者が末期のガンを患うその妻というところ。彼らはLeisure Seeker(字幕では「夢追い人」)と名付けたWinnebago製キャンピングカーでドライブをしている。男性は退職した元大学の英文学の教授。最近の記憶は霧の中であるにも関わらず、昔取った杵柄の文学に関することならいくらでも語る。自分の子供たちの写真を見ても「はて、誰かな?」というのに、かつての教え子とばったり出会った時には、名前も性格もすぐ思い出す。彼はガソリンスタンドで妻を忘れて勝手に発車し、「おい、女房を忘れて行っちゃったよ!」と呆れる若者たちのバイクに乗せられて妻は夫を追う始末。 このアメリカ製シニアロードムービーは、心身の自由を奪われかけている老夫婦が病院や家族の拘束を逃れ、車で最後の旅に出かける話だ。Massachusetts州BostonからU.S. Route 1を南下して、目指すはFlorida州Key WestのHemmingway旧居。病気の両親に突然「失踪」された子供たちは当然パニックになっている。だが、妻の認識では「パパの運転には何の問題もない」。(トラブルは、蛇行運転してパトカーに追いかけられたことと、パンクした時にチンピラに絡まれたものの妻が銃で脅して撃退したことくらい。) 長年連れ添ったふたりは時に仲睦まじく、時に険悪に。夫が50年以上昔の妻の初恋相手のことを持ち出して今でも好きなのだろうと嫉妬する。(それはJames Joyceの短編小説集Dublinersの最後章“The Dead”のアナロジーとして、妻を小説の主人公Gretaに見立てての妄想である。物語が現実を侵食するという、妻にしてみればなんとも面倒くさい言いがかりだ。)認知症の家族の思い込みとどのように付き合うべきかというのは、万国共通の悩みだ。旅の途上、件の「元カレ」を老人施設に突撃訪問することで、妻は強引に夫の疑念を晴らす。この夫はしばしば失禁する。本人もガン患者で入院治療が必要なはずの妻は、夫の粗相をテキパキと始末する。何でも積み込めるキャンピングカーは最強の移動住宅だ。 フリーウェイを疾走するLeisure Seekerを空撮する画面は明るく、広々としていて、アメリカ映画特有のドタバタ喜劇の要素も十分に含みながら、虚を突くラストへ突き進む。監督・脚本はイタリア人Paolo Virzi、妻Ella役はイギリス人Helen Mirren、夫John役はアメリカ人Donald Sutherlandと国際色豊かだ。撮影は丁度大統領選挙と重なったという。Pennsylvania州を通過中にTrump支持者の集会に巻き込まれたJohnは楽しそうに“USA! ”コールを叫び、「あなたはずっと民主党支持者だったのに、なんてこと」と妻にデモから引きずり出される場面もある。主義もモラルもとうに消えた。老いと病の現実をこのように天真爛漫で荒唐無稽、なおかつリアルな作品に仕立て上げる技量には舌を巻く。 私は長い間義母の介護と夫の看病に携わる生活を送った。見送った人々のことを思い出すたびに、何かもっと別の接し方があったのではないかと思い惑うことも多い。映画の中でも、子供世代の姉と弟の確執が描かれる。両親のそばで世話をしながら暮らす独身の弟Will。離れたところでキャリアを積む姉Jane。両親の自由意思を尊重しようとするJaneに対して、介護の現実を理解しないと不満なWill。それぞれの言い分がある。いわんや旅の終わりにEllaが採った最終手段については当然賛否両論あるだろう。「所詮アメリカの映画じゃないか」と苦笑してうっちゃるもよし、病や老齢にこんな手前勝手な決着をつけるなんて不謹慎だと憤慨するのもよし、中には共感する人がいても不思議はない。 ところで、“I’m so happy to be on the road again!”(「また運転できるって最高だな!)と叫ぶJohnには胸を突かれた。見事に爽快であるけれども、危険と紙一重の状況であることに変わりはない。他者を巻き込む事故が起きたら誰が責任を取るのかという重い課題がある。(「訴えられたらどうするんだよ!」とWillは叫ぶ。)高齢者の運転免許返上問題は、目下我が国でも議論の的になっている。運転する権利と、運転を止める選択の狭間で逡巡しない人はいないだろう。個人の尊厳を守るには、どこで線引きをしたらよいのか。思い出すのは、亡夫の病が高じた時、彼は愛車を手放す決心をした。自分の意志でカーディーラーを呼び、できるだけ良い条件で車を売った。その車を運転することによってのみ外出の自由があったのだから、車を手放すことは自由との決別だった。だが、病が操作を誤らせる可能性も自覚していたと思う。運転できない女房の私は、夫の宝物を守ってやることもできなかった。車だけあっても宝の持ち腐れになったのは確かだが。 『ロング、ロングバケーション』では、老親が車で旅に出たことを知ったWillが「なんでLeisure Seekerを始末しとかなかった?」と頭を抱える場面がある。そう、意思がある限り方法はある。末期ガンのEllaは残された時間が少ないのを知っている。彼女はリスクと自由との間で自由を取った。(所詮映画なのだ。けれど、映画の中で人は夢を見る。)そして究極の「自由」はドライブの先にある。ただ、自由とは何か、命は誰のものかという問いは普遍的なものだ。(この映画に興味を持つ人のために、Ellaの選択の中身を書くのは控えよう。) 歩くのが好きな私は車に自由を左右されることはないような気がしている。けれども見送った人々のことを思い出せば、老いと病が「ただ歩く自由」を奪うところも見てきた。もちろん人間には精神の自由もある。しかし、それさえ奪われた時には?JohnはEllaに自分が進退極まったらショットガンを握らせてくれと懇願する。「居間で実行しないでね」といなすElla。Route 1を疾走したその先には、未知の領域が無限に広がっている。
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