初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2019年 7月 31日

散策思索 12

「運動体験」

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12 「運動体験」 

北田 敬子

英語の授業が終わった時、教室の後ろの方に座っていた男子学生が教卓に近寄ってきておずおずと切り出した。
「先生、その靴。」
「えっ、スニーカーですけれど何か?帰りにジムに寄るつもりなので。」
「もしかして『初動負荷トレーニング』の?」  

この会話がきっかけでその学生と私が同じジムに通う者同士であることが分かった。授業中にはまず目立たない、名前もうろ覚えだった彼が野球部の選手であることも知った。以来、提出物の端に彼は「ジム、頑張りましょう」、「昨日オリンピック選手が隣にいました!」などと書いてくるようになった。全く思いがけないところで私は学生と並んでいた。

スポーツジムは今、巷にあふれている。24時間営業のもの、女性専用の一日30分ずつ通うもの、最新のトレーニングマシンを喧伝するものなど様々だ。機械にまたがって体を動かすなんてとんでもない、私はごめんだとずっと思っていた。どこへもたどり着かない自転車をこぎ続け、モルモットでもないのに回転するベルトの上を歩き続けるなんて!しかもそんなことにお金を払うのはよほどの酔狂だろうと心中秘かに嘲笑していた。そんな私が宗旨替えしたのは、足裏に針を刺すような痛みが走り、思うように歩けなくなったのが始まりだった。但し、一気に現在のジムにたどり着いたわけではない。

身体の末端に感じる痛みなどたいしたことはあるまい。そのうち自然に治るだろうと最初はタカをくくっていた。運動不足かとむやみやたらに歩き回っていたら余計に痛みが増して二進も三進もいかなくなった。ほうほうの体で整形外科を受診すると、X線撮影の結果「足底筋膜炎」という病名がついた。「ほらここに棘の様なものが見えるでしょう?自分の体にできた棘が痛みの原因です」という説明。通電装置を足裏にあてたり、赤外線スティックで痛む場所を暖めたり、不可解な治療を数か月続けたものの、一向に改善は見られない。

困ったときの「ネット頼み」。現代はキーワードを検索ボックスに入れるだけで、様々な解決策が提案される。それによって私は「足底筋膜炎の症状を和らげることに大きな効果が見られる」という整体治療院を見つけた。自宅からかなり遠方で、決して安い治療費ではない。それでも診療台に横たわり、全身を緩める施術を受けていると体の芯から長年の蓄積疲労が溶けだしてくるようだった。

思えば長年、自分の体を顧みる暇もなく家族の介護、看病、仕事、おまけに自分も大病を患って、そのいずれとも意地で戦っていたようなものだった。家族を見送り、様々な始末をつけ、新たな暮らしに落ち着くまで無我夢中で駆け抜けてきた。自分が楽天的な性格だと思い込んでいた私は、一切合切負の要素は体のどこかにまとめて押し込めていたのだろう。それが一区切りついたところで「もうよかろう」と噴出してきた感がある。そのまま重篤な症状に見舞われて一巻の終わりでも、文句は言えなかったかもしれない。

足裏の痛みなど、マイナートラブルと呼ぶべきだろう。それが一挙に生命にかかわるわけではないのだから。しかし、思うように歩けないというのはQOL(quality of life) を著しく損なう。さらに分かってきたのは、痛みの原因は「棘」などではなかったことだ。無理を強いる生活の中で、体が緊張し固くなり本来の柔軟性を失っていく。あちこちに生じるひずみが痛みという信号を発する。それを解消する手立てとして、身体をあるべき状態に近付ける(整える)ことで、ゆっくりと脳からの痛み信号が減ってゆく。どうやら整体の施術で実践されたのはそのようなプロセスだったらしい。

一年半余り通って鋭い痛みから解放された頃、整体院で「そろそろ積極的に体を動かしてみる時期かもしれません。さまざま検討した結果、『初動負荷トレーニング』が良いと私たちは思っています。近くのジムを紹介しましょう」と言われ、私は生まれて初めてスポーツジムなるところへ足を踏み入れた。

驚いたのは、そこには老若男女、ありとあらゆる世代の人々が通ってきていることだった。杖を突いて歩くのがやっとな老人も、筋骨たくましいアスリートも、それぞれにインストラクターから指示されたメニューに従って、黙々とトレーニングに勤しんでいる。どんなレベルの人も負荷の重量を調節してマシンを使えば隔たり無く運動を行える。それぞれのマシンにはPelvis(骨盤)、Gluteus(臀筋)、Scapula(肩甲骨)、Hip Joint(股関節)、Clavicle(鎖骨)などと表示が出ていて、どこをピンポイントで訓練しているかわかる。一回60分程度のローテーションでそれぞれを経巡り、一ヶ月に一度はメニューの見直しとアドバイスも得られる。一週間に二回、私はこのジムに通う習慣が出来た。

それにしても、磨き上げられたステンレスの機械に取り付いて体を動かさなくてはならないと言うのは奇妙なことではないか。そこまでして健康増進をする必要があるのか。運動選手なら合目的な訓練は不可欠であろうが…という疑問が湧かないわけではない。自分がいつの間にか健康礼賛の信者になってしまったのでは?という不安が過らぬわけでもない。

だが、淡々と15回ずつ、20回ずつ、動作を数えながら体を動かすことは、その一つ一つは実に単純な動きでありながら楽しい。一時間運動しても息が上がることもなければ、血圧や脈拍が上昇するわけでもない。程よく汗をかき、ささやかな達成感もある。中にはジムを社交場と心得ているのか、賑やかにお喋りする面々もいるにはいるけれど、概ねジムの中は静かだ。ちょっとした道場の雰囲気がある。

件の学生が私の靴に注目したのは、体のバランスを整え、歩行動作を支える靴としてこのジムで提供される『初動負荷トレーニング理論』に基づいて設計されたものだったからだ。見てくれは問題にせず、私は今のところどこへでもジムで購入したスポーツシューズを履いていく。最近女性がパンプスに縛られることを見直そうと呼びかける#KuTooという動きがある。(セクハラに異議申し立てをする#MeTooに刺激されて生まれた流れでもある。)「靴からくる苦痛」へのNo!だ。おしゃれをする自由もあれば、お仕着せの装束を拒む自由もある。これまで当然のこととして受け入れられてきた様々な事柄への疑問が噴出している。時流の尻馬に乗っているつもりはないのだが、結果として私はこんなところへたどり着いていた。スポーツとは無縁だった自分が、痛みを通じて身体に回帰したということらしい。

 

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