初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2021年 3月2日

散策思索 25

『三浦大根』
コロナ徒然-4

 

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散策思索24  「三浦大根」―コロナ徒然-4

                                              北田 敬子

COVID-19感染拡大が始まって以来、母娘で暮らす我が家は二人とも完全なリモートワークとなり、食事以外の時間は各自の部屋に「出勤」している。電車通勤をしないので、以前に比べると極端に運動量が減った。これは何とかしなければ健康上の理由からも美容の面からも取り返しのつかないことになると思い、毎日一時間一緒に歩くことにした。元々ウォーキング好きで、これまでに「鄙び旅」と称して近郊の海辺や里をてくてくと共に歩き回ってきた。近年ニュージーランドとデンマークを彷徨したことは、Writers Studiosの拙稿に記した通りである。

娘は会社勤めなので、フレックスタイムとはいえ勤務時間が決まっている。リモートワークと言うのは、社員に自律心と節制が働かないと機能しない。定年退職して非常勤で教職を続ける私とは時間管理の基盤がだいぶ異なる。私はどちらかと言えば息抜きにぶらぶらと気の向くまま歩きたいのだけれど、娘はPCの前を「離れる時刻」と「戻った時刻」をキッチリと報告する義務がある。既定の就業時間を守りつつ、自由行動時間を一時間だけ一日のどこかで取ることは許されている。この一時間は厳守しなくてはならない。予め一時間で行って帰れるところを定め、無駄な行動は極力避ける必要がある。したがって、ウィークデイの「散歩」は競歩に近くなる。それでも、太陽を浴び風に吹かれることで常時在宅のストレスを軽減することができるなら、ありがたいと言わざるを得ない。

私たちの住む東京の西郊には、多摩湖(別名狭山湖)という都民の水瓶あって、そこから東へ「水道道路」が延びている。私たちはその日のスケジュールに応じて、遊歩道とサイクリングロードを兼ねているこの道を東西に歩くことが多い。所々で一般道路や電車の線路を横断するとき以外は、信号もないし自動車に追い立てられることもない。一年間、毎日のようにこの道を歩いてみて、気付いたことも少なくない。最初の「緊急事態宣言」が出た頃には、未だマスク無しで歩いている人がかなりいた。できるだけ外出を控えるようにと言うお達しにも関わらず、「密」になるほどではなかったけれど(私たちを含め)散歩する人はずいぶん多かった。それが、次第にマスク無しの人が見当たらなくなり、いつしか誰も彼もマスク姿に。夏の暑い最中に思わずマスクを外して深呼吸しながら歩くと、すれ違う人々の視線が痛かった。

外に出る時刻によって、出会う相手が異なる。少し日が陰る頃には俄然犬を連れた人が増える。ずいぶん多様な犬がいるものだ。やはりこの時代、小型犬が多い。ミニプードルやポメラニアン、チワワ、パピヨン、ダックスフント等々。どの犬もほぼ例外なく洋服(?)を着ている。中型となると柴犬が多い。シベリアンハスキーやコリーに出会うこともある。大型の代表はゴールデンレトリーバーだが、羊のような大きさのサモエドを連れた年配の女性(というより年配の女性をエスコートしているサモエドと言うべきか)にも定時に会う。犬を連れていない私たちは飼い主と話をすることはないが、飼い主同士は犬を通じて言葉を交わしている。犬の集会か人間の集会か分からないような「密な状態」が出来上がることもある。野外のことゆえ気兼ねもないのだろう。犬の取り持つコミュニティーを遠巻きにしながら、我々は自分を散歩させているようなものだ。

我が家には猫が二匹いる。猫は散歩をしない。そもそも外に出さないことを条件に保護猫団体から貰い受けたので、昔の猫のように外を飛び回って気ままに生きる自由は元からない。それを哀れと言う人もいるし、人間の身勝手だと非難する人もいる。だが、猫は限られた室内で自足して暮らしているように見える。水平移動のスペースに限らず、冷蔵庫・本棚・箪笥などの上に飛び乗り、身を潜めたり人間たちを睥睨したり、上下に移動する自由を謳歌しながら猫たちは不平不満を言わない。餌と水とトイレの世話を欠かさなければ「ステイホーム」のお手本のような生活だ。

とはいえ、私たちには自分たちの散歩の途中で「外猫」を観察する楽しみもある。公園に「餌やり部隊」の人々が集まっているのを目撃する。単独で縄張りの決まった場所で餌をもらっている太った猫もよく見かける。鰻屋の前に座っている猫には「うなぎちゃん」という名前を勝手に付けた。日向ぼっこの場所にいつも仲よく寝そべっている二匹の猫もいるし、とある路地の家の庭では、毎日夕刻に10匹は下らない近所の猫がやってきてそれぞれの皿で餌をふるまわれている。通りを駆け抜けていく猫や、道端にうずくまって沈思黙考しているような猫を見かけるだけで、何やら得をしたような気になる。

そんなある日、散歩の途中で農家の野菜無人販売所に大きな三浦大根が三本並んでいるのを見つけた。思わず近寄ってみると¥200と書いてある。この三分の一もない三浦大根を、年末に私は八百屋で一本\500払って買った。それでも普通の青首大根に比べるとずっしり持ち重りがして、お節料理に重宝した。また食べたいなと思っていただけに、こんな掘り出し物はめったにないと買っていくことにした。しかし、三本あるうちの一番小ぶり(に見える)ものでさえ、持ち上げるのすら容易ではなかった。娘に手伝ってもらって私のリュックに入れた途端、大根はのけぞる様に飛び出し、「あっ!」と言う間もなく二つに割れて道に転がった。仕方ない。拾って帰って、それから連日大根料理に精を出した。

ようやく食べ終わってしばらくした頃、また三浦大根が出ていた。先のものよりまだ大きい。値段はやはり¥200。買わずにはいられなかった。今回は取り落とすなどと言う失態を演じないよう用心してブツを取り上げ、娘が肩掛けの買い物袋に入れて持った。私が持つと主張したのだけれど、「¥200の大根でギックリ腰になったらどうするの?」と諭されて、任せることにした。やっとのことで家に持ち帰り、先ずは重さを計ってみると6.2kgあった。これで¥200という値段は格安というより価格破壊だろう。今時、この値段でかくも大きな食べ物が他に手に入るだろうか?さすがにそのままでは冷蔵庫の野菜室に収まらないので何等分かにしてポリ袋で密封し、少しずつ切り崩して食べることにした。

ふろふき大根、おでん、ブリ大根、浅漬け、スティックサラダ、味噌汁の具、根菜の煮物、おろし大根等々何にでも使える。味付けが違えば食べ飽きることもない。かくて連日一本の三浦大根が多彩に変身しながら食卓に上がることとなった。「大根足」だとか「大根役者」などとからかいの種にされることはあっても大根が賛美されることはまずない。しかし、それは偏見というものではないか。びしりと張り詰めた肌も、きめ細かな繊維も美しい。太さも重さも美質の表れだ(と私は思う。)

それにしても、もしこの三浦大根が流通経路に乗って市場へ出されるとすると、一体いくらで売られるのだろう。例えばスーパーでこの大きさのまま並ぶだろうか?通常のサイズの大根でもハーフカットで売られる時代に、一本6.2kgが収まる野菜ケースは滅多にないかもしれない。注意して売り場を眺めてみても、そんな巨大な大根には未だお目にかかったことがない。とすると、6.2kgは規格外だったのだろうか。簀も立っておらず、瑞々しくほんのり甘い見事な大根なのだが、市場にそぐわないので路傍で売られていたのだろうか。

かくて友人たちにも同僚にも、親戚の誰彼にも、グループホームに入っている母にもめったに会えない状態が既に一年以上続く。厳格な都市封鎖を敢行する諸外国の街に比べれば、日本の在宅要請(ステイホーム)は緩やかな規制と言うべきだろう。二度目の「緊急事態宣言」は、どうやら2021年三月初頭までには解除されそうな情勢である。COVID-19は終息に向かうのか、それともいずれ第四波が襲来するのか予測はできないながら、昨年の同時期に比べると我々は大分ウィルスを相手にする生活に馴染んできた(否、馴らされてきた)ようだ。

最も有効な防御姿勢は、ひたすら他人と接触しないことに尽きる。感染のチャンスを徹底的にウィルスから奪うこと―密集状態を避け、手指の消毒に努め、室内の換気をこまめに行うこと。このような指標が日夜メディアを通じて喧伝されると、真面目な庶民はそれに従う。余分な灯火の落ちた20:00過ぎの街からは人の気配が消え静まり返る。この状況に事業停止や廃業を余儀なくされた企業・店舗、そして数多の従業員の生活がこれからどうなるのか、明瞭な見通しを持つ人はいない。TOKYO 2020と大々的に打ち上げられた花火が最後は花開くのか、それとも途中でしぼんで落下するのかもまだ判然としない。誰もが宙ぶらりんになっている。

ようやくCOVID-19のワクチン接種が始まり、事態は鎮火に向かうだろうとの期待が高まっている。だが山火事も完全な終息には長い時間がかかる。ましてや全世界を巻き込んだpandemicが一朝一夕に終わることはないだろう。2021年2月末現在の全世界における累計感染者数は約1億1300万人を超え、死者数は約250万人を超える(NHKニュースサイト)。誰も想像しなかった事態である。私個人は、自宅に待機し、歩ける範囲で行動し、TV・新聞・インターネットを主な情報源とし、オンラインでの仕事や会合に出ることでかろうじて社会との接点を保ってきた。視野狭窄に陥っていないか、思い込みにとらわれていないか、確かめるすべはない。事実を直視し、希望をもって暮らすにはどうすればよいのだろう。

一本\200の大根に圧倒されたり、小さな動物に目を楽しませたり、咲き初める花々に季節の移り変わりを感じたり、ささやかなかすかな変化に喜びを見出す精神の柔軟性を失わずにいること―そこから生き延びる道を探るのみかもしれない。一年も我慢したのだ、もうよかろうと野放図になるのは危うい。ウィルス変異種の広がりが報じられるこの頃、正念場はこれからと思い定める方がよかろう。COVID-19に安易な「復旧」は期待できない。ましてやNew Normalと言われる新たな生活様式へのヴィジョンをリアルに思い描ける人がいるのだろうか?未だ混沌の果ては見えない。(続く)

初出 田崎清忠主催
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