初出 田崎清忠主催 Writers Studios 2022年 1月3日 |
散策思索 26 『新しい日常』
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散策思索26 「新しい日常」―コロナ徒然-5 (改訂版) 北田 敬子 “COVID-19”と言い慣わしてきた新型コロナウィルス感染症が世界に蔓延し始めたのは2019年12月のことだった。あれから既に丸二年が経過し、報じられる感染者数の増減に一喜一憂する日常から緊張感がいつの間にか消え、感染症との生活“Life WITH Coronavirus”が当たり前のことになっている。(残念ながら“Life AFTER Coronavirus”とは言い難い。そもそも“Life Free From Coronavirus”と呼べる日々が来るのかどうかも見通せない。) この間、“COVID-19”については様々な言説が飛び交った。ワクチン接種が進めば感染は抑えられると多くの人々が信じ、期待し、わが国でも高齢者を筆頭に各自治体が最低二回の無料接種を実施してきた。接種を望まない自由も確保され、当初は物珍しかった接種会場は2021年の初夏以降一気に全国に展開した。年齢を問わず希望者への接種はひとまず行き渡った模様だ。 但し、“COVID-19”が一思いに「退治できるものではない」ことを我々は知らされた。日本にはオリンピック・パラリンピック(TOKYO 2020)の頃から秋口にかけて感染者急増の「第五波」が押し寄せ、デルタ株が猛威を振るった。その後一旦終息に向かったかと錯覚するほど感染者数が減ったものの、現在はオミクロン株という新手が勢力を伸ばしつつある。世界各国はそれぞれの対策を講じ、未だ自由に国境を越える往来は叶わない状況が続く。 都市封鎖を敢行した国々に比べれば、日本の感染症対策はソフトに見える。しかし、ワクチン接種に加えて、飲食店での酒類提供の禁止期間設定、夜間営業の制限、イベントへの集客制限などの措置、マスク着用、三密回避、手指消毒などの勧奨を組み合わせることによって一定の抑止力が働いたようには見える。その陰で、倒産、営業停止、破産に追い込まれた大小の企業は後を絶たず、失業、貧困にあえぐ人々の数はおびただしい。どのようにすれば「コロナ禍」に失われたかつての日常を取り戻すことができるか、それともこの災厄に「復旧」という決着はないのか、誰しも息をひそめて事態の推移を見つめているところだ。 この二年間、私個人はこれまでの労働形態からは思いもよらない生活を送ってきた。2020年度、2021年度、一度も大学の英語非常勤講師として教室に出向く対面授業を行わなかったのだ。Coronavirusが一体どのようなものか皆目見当のつかなかった2020年度初め、政府の主導による全国一斉休校措置が取られた頃は、有無を言わせぬ在宅遠隔授業が奨励されていた。その後、徐々に感染状況が明らかになってくると、できるだけ対面授業を再開するようにという指示が文科省から出され、各大学は感染防止対策に知恵を絞りながら、学生をキャンパスに呼び戻す工夫をし始めた。一方企業の中にはリモート勤務を労働形態として認め、正式にシステムに組み込むところが増えた。出勤をmust(至上命令)と考えないスタイルが広がりつつあったと言える。 大学からは「対面が望ましいが、事情によってはオンライン授業も認める」という通達があった。そのような状況の中で、「遠隔授業を続ける事情とは何だろう?」と私は自問し続けてきた。教室に出向かないことへの罪悪感はある。(特に2021年の秋以降)授業に出たからといって感染する可能性が一気に高まるとも思えない状況に転じ、同僚の中にはそれほど私と年齢の違わない世代でも果敢に対面授業を行う人が増えた。学生からは時折、「対面に移行する可能性はありますか?」という問いかけも来る。それを押して私が「今年度いっぱいはオンラインで行きます」と言い切った根拠は何か? 罹患したら悪化するリスクの高い高齢者層に属するという自覚と共に、好奇心も働いていた。「オンラインでどのような授業が可能だろう?」と。それまで一年余りの経験から、教材提示方式にZoomやTeamsといったリアルタイムのミーティングを組み合わせると、学生に課すassignmentの分量や難易度がクラスごとに調整できる。毎週確実に学生が課題提出に応じる様子は、居眠りや私語で教室の雰囲気を乱し、予習も復習もせず出てくる輩のいる対面授業より、よほど実質的な勉強時間と内実を確保できているという感触もあった。(大学生にしてそんな幼稚なレベルか?という批判があることは重々承知の上で書いている。)教員側が課題を出し、回収し、解答・解説から成る復習用資料を用意し、リアルタイムのミーティングを実行するには時間と労力が要るのも確かだ。実際、私は一週間全部を授業準備と事後処理のために費やして暮らしていたとも言える。 演習が中心となる英語の授業は、対面で丁々発止のやり取りをしてこそ成立するというスタンスが数十年にわたる私の職業観だった。それにある程度は遠隔でも授業が出来そうだという発見が加わった。音声についてはインターネット上にオンデマンドのストリーミング教材が存在し、添削は文書のやり取りでも可能であり、質疑応答にはチャットという即時に言葉の行き来する(ファイルやスクリーンショットも添付できる)システムがあり、そのチャットには電話機能も付いているので、いざとなったら音声会話も即時に可能というITツールの数々。それらを総合的に活用出来たらどうなるだろうという興味に私は支えられていた。試行錯誤は数々あった。四苦八苦する私を尻目に、難なくオンラインツールを使いこなす「デジタル・ネイティブ」世代の学生たちの面目躍如という場面に何度も遭遇した。(言語リテラシーには大いに難があっても、ITリテラシーにはめっぽう強いという若者たちがいる。)すると新しい日常が回り始め、ギリギリまで行ってみようという野心がわいてきた。 オンライン会議システムのZoomやTeamsでリアルタイムセッションをするときには、クラス全員との英語でのsmall talkが欠かせない。コミュニティーへの帰属感が希薄になり、直接の会合に制約がある中での仲間のことばに、参加者が耳を澄ましているのが感じられる。一人一人の発言時間は短いものの、「話せた」「もっと話したかった」という反応は次につながる。また、テキスト以外の教材はインターネット上のリソースから自在に選べる。教室でプロジェクターを共有し、プリントを配布するより各自が自分のペースで読み込む時間を確保できるメリットも高い。私自身、学生と共に多様なウェブ上の素材に接し学ぶところが多かった。(文字情報は元より、画像・映像を組み合わせることで、毎回の授業のトピックを多面的に掘り下げることができる。そして、検索機能の進化は目覚ましい。) ある意味でこれまでの教員生活を顧みて、無自覚のうちにマンネリ化していた私の授業スタイルを洗い直す契機を得たという面は確かにある。それを中途半端なところで止めたくなかった。通勤の往復に費やしていた時間と労力を、授業内容の練磨に振り向けるチャンスを得たのは確かだ。在宅勤務でラクをしたとは思わない。むしろ教材に手を入れれば入れるほど、時間がかかる。一回の授業に労力を投入しすぎて、時折「何をやっているのだろう?こんな面倒な課題を喜ぶ学生がいるわけはない」と反省することしきりだった。下手をするとオンライン授業は一方通行になる危険性を大いに孕んでいる。功罪両方の間でバランスをとるのは難しい。綱渡りのような二年間だったとも言える。 かくて、二年目のオンライン授業にそろそろ終わりの近付いている昨今、いよいよ2022年度からは教室に復帰しようと心の準備をし始めたところだ。対面授業は新鮮に輝いて見える。しかし、気が付けば私は「非常勤の定年」に急接近している。人生の短さに嘆息する。私は貴重な二年間を棒に振ったのだろうか?それとも、“COVID-19”を機に今更ながら新しい仕事の仕方を学んだのだろうか?いずれにしても、若い世代には“Life AFTER Coronavirus”が訪れることを祈るばかりだ。そして“Life Free From Coronavirus”が実現する頃、たとえ私がそれを見届けられなくても、“Life WITH Coronavirus”が我々にもたらした正と負の遺産を共有したことを先ずはしっかりと認識しておこう。確かに歴史の転換点を目撃し、共に生き延びてきたという手ごたえはある。 |
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