初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2024年 5月7日

散策思索 36

「季節外れの訪問者」
―コロナ徒然-7

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散策思索36 

「季節外れの訪問者」―コロナ徒然-7

北田敬子

4月の中旬に築地場外市場を波除神社まで歩いた。路地という路地は観光客で溢れ返り、街頭に店開きする食べ物屋は香ばしい匂いを振りまきながら海産物をその場で焼いて売っている。立ち食い専用の卵焼きも、ホタテも、アイスクリームもなんでもござれ。寿司屋の前では呼び込みの威勢の良い声、順番待ちの行列が至る所にできている。祭りの賑わいそのものだ。ほんの数百メートルの距離を歩くのも大変なありさま。海外からの訪問者が多いのは言うに及ばず、若いひとたちはもう誰がどこから来たかなど関係ないはじけぶり。夏さながらの服装で隅田川縁の陽光を全身に浴びてたむろしている。

一時期の閑散とした場外市場のありさまを覚えているだけに、この沸き立つような賑わいには目を瞠った。それでもかつて市場があった頃の「場外」とは違うと報道されることが多い。あらためてひしめき合う小店舗と押し合いながら行きかう人々の様子を見るにつけ、今度は能登半島地震で炎上した輪島朝市のことを思わずにいられない。耐震・防火などという基準を持ち出すと、ここの存続も危ういのではないか。築地の場外市場をアジア的な解放区のように思ってきたので、その素朴な活力と生きの良さが永遠に続いて欲しいと願うばかりだ。(市場跡の再開発計画については別稿に譲りたい。)

インバウンド観光客の復活はめでたいこととして捉えられている。数にして2023年の訪問者数総計は2500万人を突破し、それはコロナ禍蔓延以前の2019年の8割にまで回復したとのこと。(観光庁の統計による。)消費額にして5兆2923億円というから観光立国を目指す日本にとってはそうあって欲しい動向に違いない。しかし、同時にこの現状には「円安」というファクターが関わっていることも見逃せない。コロナ厳戒態勢が消滅し、安い買い物ができて安く泊まれる日本とあっては、「今が買い時」なのだろう。その一方で京都に代表される有名観光地に「オーバーツーリズム」の波が押し寄せ、かの地本来の落ち着いた味わいを楽しむことが不可能になっているともいわれる。あちらが立てばこちらが立たず、である。

そのようなことをつらつら考えながら築地波除神社を後にして、友人と共に都内の寺社巡りをした。先ずは築地に近い深川門前仲町の富岡不動尊と、ほぼ隣接する富岡八幡宮へ。この度はお参りに「御朱印帳」を携えてきた。社務所に願い出ると参拝記念の墨痕鮮やかな神社・寺院名を参拝日と共に記し、朱印を押してくれる。(若い人たちが好む「スタンプラリー」に似ていなくもない。)遂に我もその齢に達したかと厳粛な面持ちで御朱印をいただく。晩春の境内には名残の桜吹雪が舞い、観光客の群れとてなく、静かなものだった。丁度昼時、深川めし(浅蜊のたっぷり入った炊き込みご飯)を門前の飯屋で賞味した。

次に目指したのは根津神社。ツツジの季節には少々早かったものの、既に境内を半円に囲む小山「ツツジ苑」には鮮やかな花が咲き初めていた。桜とツツジがこう接近して開花時を迎えるとはもったいないような気がしないでもない。以前に根津のつつじ祭りを見に来た時には境内一杯に出店が拡がり、私はカルメ焼きの出来る工程をじっと眺めたものだった。この度はツツジには時期尚早のせいか、境内は広々として観覧者もちらほらいる程度で、御朱印をいただくために列に並ぶ必要もなかった。街の中に聳える神社とそれを囲む杜があるというのはなんと心の落ち着くことだろう。いつ来ても変わらずにそこに鎮座する神社の一角をこの国の一つの文化として継承することの意義を改めて感じる。(私はどうしても宗教というより環境保全という面で杜をとらえているようだ。)

谷中・根津・千駄木界隈は「谷根千」の通称が深く根付き、都内の観光名所として名高い。春うららの通りをゆったりと散策するには文句ない午後だった。平和であることの恩恵を掛け値なく味わえる。しばらく辺りをぶらついた後、白山神社へ足を延ばすことになった。地下鉄を乗り換えながら行くほどの距離でもないとは言え、歩き通すには少し遠い。そこで、タクシーを奮発することにした。瞬く間に流しのタクシーが止まってくれた。乗ってせいぜい10分足らず。さして大きい神社ではないが、「紫陽花寺」として知らない人はいない。私もそぼ降る雨の中、以前に一人で訪ねたことがある。根津神社と同じように、白山神社も路地奥に立つ鳥居が目印だ。

境内には白い桜が散っていた。傍に寄るとそれは「白旗桜」という二本の御神木だった。花と葉が半々に青空に鮮やかなコントラストを描いている。それを眺めているだけでも清々しく、「桜に間に合った」という満足感が湧いてくる。木の下に数人の女性が立って話をしていた。どうやら「白旗桜」のことらしい。聞くともなく聞いていると、「ほら、萼ごと散るの」と言っている。彼女たちの眼差しを辿ると生垣の脇にキジシロ猫が眠っており、体の上に5つ、6つ萼ごと散った白旗桜が載せてあった。どう見ても年老いた猫だったけれど、花に飾られた姿は愛らしく、花はまるでお供えのようだった。木漏れ日を浴びた猫は、周囲の人間には全くお構いなく自分の領分で安眠しているのだった。白山神社でも御朱印をもらい、その日だけで私は「築地波除神社」、「富岡不動尊」「富岡神宮」「根津神社」「白山神社」と5つ集めた。平成二十九年(2017年)に青森県八戸の「蕪島神社」で入手して以来、真っ白だった「御集印帳」(このようにも呼ばれる)のページがようやく息を吹き返す按配となった。

それにしても、満開の桜を求めて人込みに出るでもなく、名所旧跡を巡って蒙を啓くという目的でもなく、普段そこにあってもことさらに気を止めない神社仏閣のいくつかをゆったりと訪ね歩くことは、半日余りの行楽としてそこはかとない充実感をもたらすものだった。私のいつもの散策は何処までも歩き続けるか、風景を写真に収めるか、あくまでも驚きに満ちた場所を求めることといえる。いずれまたそんな散策もするのだろう。だが、この度の「聖地巡礼」の旅は違った。「遠くへ、遠くへ」から、「今、ここにある幸いへ」とでも言おうか。ことさら信心深いわけでもない人々を描いた『カンタベリー物語』がふと頭をよぎる。古今東西皆同じ。

だから花の季節の後で、今頃季節外れの「コロナウィルス」に感染し臥せっている時に、私が思い出すのは喧騒の市街をわずかに逸れた神社の杜で、都会の静けさに包まれたひと時をゆくりなく味わった御朱印蒐集の散策の日のことなのだ。感染拡大の初期に厳戒態勢が敷かれ、密集を避けよと声高に呼びかけていたあの騒ぎはどこへ行ったのだろう。感染は終息しない。予知された通り”Life with COVID-19”が続いているだけだ。そしてその宿命の日々を生き延びるために我々に必要なのは、静かで平和な日常のようだ。

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