初出 田崎清忠主催 Writers Studios 2025年 2月3日 |
散策思索 42 「シュレディンガーの猫 」 |
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散策思索42 「シュレディンガーの猫」 北田敬子 放射性物質を置いた箱の中に猫を入れた場合、ふたを開けてみるまで猫が生きているか死んでいるかは特定できない。蓋を開けてみた時に猫の生死は決まる―というような命題がある。これは量子力学における不確定性原理の思考実験として有名なものであり、誰かが実際に猫を危険にさらす実験をしようというわけではない。もとより私に量子力学も不確定性原理も分かるはずがなく、聞きかじりの文言をふと思い出しただけのことである。だが唐突に「シュレディンガーの猫」は私の意識の中に現れた。 ここ10日ばかり、私は飼い猫の採尿という使命を帯びていた。先月4〜5日留守にする間、猫二匹をアニマルクリニック(ホテル)に預けた。ついでに人間ドックならぬ「猫ドック」で体調検査をしてもらおうという目的もあった。人間は猫を置いてサッパリと旅に出たものの、置いていかれた猫の方はそうはいかなかったらしい。当初は同じケージの中で身を寄せ合って環境の異変に耐えていたものの、一方が他方の餌を分捕るという仕儀に及び引き離された。おまけに採血を含む検査を幾通りか受け、ストレスが募ったようだ。帰宅後に渡された検査報告書には餌を取られていた方の猫(キジシロ「はっか」)の尿に蛋白が検出され、相棒の餌を奪っていた方の猫(キジトラ「にっき」)の血液はコレステロール値が高くなっていた。人間でも検査をすると色々思いがけない結果が出てビックリするのと同じように、猫たちのデータを見て人間はオロオロした。再検査となり、今度は飼い主自身が猫の採尿をして「検体」をクリニックに届けなくてはならなくなった。 人間にとっておのれの採尿はさほど難しいものではない。だが、猫の場合は意外に手間がかかる。猫はまず間違いなく「猫砂」を敷き詰めた専用トイレで用を足す。「猫砂」とは木片チップなどを加工して作られた粒で出来ており、所謂海辺の真砂とは違う。この加工砂は放たれた尿の大部分を団子状にして捨てやすくする優れもので、人間には有難い物質と言わざるを得ない。臭わないし捨てやすい。だが出来上がった団子をクリニックに届けるわけにはいかない。あくまでも注射器状のスポイトに吸わせた残りの水分だけを提出するよう指示されている。猫に採尿カップを渡して「ここに出しなさい」というわけにもいかないから、猫トイレに仕掛けをして検体採取となる。これが厄介だ。 猫のトイレは三層からできている。砂を敷く上の層。水分が落ちる中間層(普段はここに猫用尿パッドを敷いて団子に固まらなかった水分を吸わせている)、全体を支える下の層。先ずは上の層の裏側、格子状になった面に木綿のガーゼを張り付ける。これで猫砂から落ちて来る余分な粉を濾す必要がある。採尿のためにはパッドは不要なので、それを外して代わりにポリ袋を第二層の皿に被せ、ここにたまった水分を吸い上げることにする。(過去の経験から生み出した秘策である。) とはいえ敵はそうたやすく陥落しない。相手は二匹いる。今回採尿が必要なのはうち一匹だけ。しかも、生体は採取後常温で30分以内、冷蔵庫保存なら8時間以内のブツでなくてはならない。とすると、二匹のうちどちらがいつ出したものかハッキリしないと検査対象とは認められないことになる。さて困った。我が家の猫は24時間にほんの数回しかトイレを使わない。大には個性があるが、小の方は全く区別がつかない。クリニックが開いている間に規定にあった新鮮な採取物を届けなくてはならないとなると、正確な観察が要求される。 猫に言語はない代わりに人間の思惑を察する能力があるのではないかと疑うほど、対象の猫はこちらが観ている目の前で小用に及ばなくなった。決まって早朝観に行くと団子ができている。どうやら人間が寝ている隙に行為に及ぶらしい。あるいは人間が観察を怠っている時や外出時も隙になる。団子を見つけて「やった!」と思っても、どちらのものか、いつのものか特定できずに臍を噛むことしばし。監視カメラを付けようかという誘惑にかられることもあったけれど、その場で採取できなければ科学技術は無意味だ。 万策尽きた人間は、猫トイレ近くの長椅子で寝ることにした。砂をひっかく音がしたら即座に飛び起きて採尿だ!と。午前3時、気配なし。午前5時、ガサゴソいう音で目が覚めた。果たして件の猫がトイレから出てくるところを目撃。今度こそ仕留めた!と眠い目をこすりながら駆けつけると「大」だった。二台あるトイレのもう一方に液体を発見したのはすっかり夜が明けてからだった。なんと見落としたのか、それとも別の猫のものなのか、いつのものなのかもわからない。「一体どうしたらよいのだ!」と髪を掻きむしっていると家族の者曰く「シュレディンガーの猫だね。」 いやそんな大げさなことではないのだが、それでも諦めるわけにはいかないので翌晩再挑戦した。今度は二台の猫トイレの真ん中に布団を敷いて寝た。果たして、キジシロ「はっか」は日の出前に悠然と用を足した。逃すまいと覚悟を決めて眠っていた人間はかすかな物音に気付いて目覚め、懐中電灯の明かりで採尿に成功!朝一番にアニマルクリニックに持って行ったのは言うまでもない。結果はシロ。もう蛋白は検出されなかった。どうやら猫ホテルの狭い檻に入れられて不調を託った猫も、帰宅して解放され、飼い主を翻弄することで十分鬱憤を晴らして健康体に戻った模様。別途血液検査を受けたキジトラ「にっき」のコレステロール値も正常値に戻っていた。 数理解析学を専門とし、いつも量子力学や数理物理学について語っていた亡夫だったら何と言っただろう。「思考実験は比喩ではないし、こんなところでシュレディンガーを持ち出すなんてお門違い」と苦笑したに違いない。だが門前の小僧は今も箱の中の猫の話を忘れない。 |
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