初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2025年 4月25日

散策思索 43

「桜に思う 」

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散策思索43

「桜に思う」

北田敬子

私は長らく「4月始まり」の手帳を愛用している。4月から翌年3月までの学校暦に沿って、諸般のスケジュールが書き込みやすいからである。4月に新入社員を迎える企業やお役所にも「会計年度」なる区切りがあるだろう。そんな人々にとって本当に気忙しいのは師走よりも弥生から卯月なのかもしれない。列島を北上する「桜の開花宣言」に沿って、全国各地で花見日和が報じられるお国柄に長閑なものを感じる。だが今年の桜にはひときわ心が騒ぐ。

手帳に載っている「満年齢早見表」は便利だ。年号(大正・昭和・平成・令和―さすがに明治はもうない)、西暦、満年齢、干支が分かる。私は思いたって実母の生まれ年を確かめてみた。母は昭和3年生まれ。西暦で言うと1928年だ。今年(2025年)97歳になる。私と同じ辰年。24年の年齢差を引けばよいのだから見るまでもないのだけれど、改めて彼女が1920年代に生まれた人であることが分かった。第二次世界大戦に至る、動乱と喧騒の時代として歴史に際立つ。もちろんどの時代だって振り返ればエポックメイキングなことはいくらでもある。ただ、実際に身近な人と結びつけて考えると別の様相も見えてくる。

母は戦中・戦後に人手不足となった小学校で「代用教員」を勤めていた。そのまま教職を続けなかったのは、「墨塗り教科書」で授業をすることが恐ろしかったからという。この前までそれが当然と思われていたことが一挙に変わって、ついていけなかったとも。「意気地がなかったんだわ」と言うのを何度か聞いた。曲がりなりにもオルガンを弾いて生徒たちと唱歌を歌ったこともある。「でも、正式の教育を受けているわけじゃなかったから、何をするにも自信が持てなかった」というのも私の記憶に残る言葉だ。昭和20(1945)年に戦争が終わったとき、母は未だ17歳だったことになる。なんと若い先生だったろう。しかし、未熟さは生徒たちに別の記憶を刻んでいたようでもある。当時の教え子から「センセイ」と呼ばれ同窓会に招かれたのは一度や二度のことではなかった。あの時代を共に生きた人々の絆は堅い。

それにしても、母の問わず語りをもっと聞いておけばよかったと思う親不孝者の私である。母がよく口にしていた「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」の通り、不意打ちはいつでもやって来る。春先の定まらぬ天候を前にすると、先人の観察の確かなことを改めて思い知らされる。桜の花ほど一気に満開となり、また瞬時に散り果てる花もない。それを何度目にしてきたことか。にも拘わらず、人はその本懐を掴まぬままに齢だけ重ねるものらしい。

ここ5年あまりグループホームと呼ばれる高齢者介護施設に入居していた母は徐々に弱っていき、だんだん足腰が立たなくなって車椅子に座りきりとなっていた。どちらかと言うと社交的だと思っていた(70代の頃には自ら志願して高齢者施設で入居者の話し相手ボランティアをしていたこともある)のに、いざ自分が介護される側になってからは進んで交友の輪を拡げることもなく、語り合える仲間を一人も持たなかった。ただ介護職員とは必要な会話を欠かさず丁寧に挨拶や感謝の言葉を述べるので、コミュニティーの中にそれなりにフィットしていたとは思われる。グループホームでは洗濯物を畳んだり、食器を片付けたりといった軽作業も協力して行われているため、母は「よく手伝ってくれるのよ」と報告されることもしばしばあった。何者でもなかった人のせめてもの矜持を思う。

時は淡々と過ぎ、それなりの安定と静寂が母を包んでいたある日、母がベッドから車椅子への移乗の際躓いて足を骨折し、急遽病院へ搬送されたとの知らせが届いた。駆けつけてみるとベッドサイドには輸血のパウチ、水分補給の点滴パウチ、添え木をした脚は赤黒く腫れ、口から鼻は酸素マスクで覆われていた。聞けば肺には水がたまっていて、血中酸素濃度も低く、血圧も脈拍も低い。肺炎の恐れありと。それから二週間。医師から延命治療をどうするかという打診があった。唐突な展開だった。慌てて弟妹達と集まり母の書置きを改めてみれば「一切の延命治療不要」とある。「胃ろう」は断ることにしたものの、ひとまず「中心静脈栄養」なる措置だけは試してみようということになった。

自宅が病院に近いこともあり、私は毎日15分以内と定められた面会時間に母を訪ねた。入院前から下がり続けていた認知能力は益々衰え、酸素マスクが外れてからも母が呼びかけに応じたり問いかけに答えたりする頻度は減っていた。だが、桜の花が満開となる頃、明るい日差しに誘われるかのように応答らしきものが得られることもあった。
「おかあさん、こんにちは。」「こんにちは。」
「あし、痛むの?」「ううん。」
声とも言えない小さなつぶやき。眼はこちらを見ていても私が誰かは分からない。絶食からゼリー食、ミキサー食にまで回復を示したのは心強かった。しかし、医師は「中心静脈栄養」を外せば摂取できる栄養はごく僅かとなり衰弱していくでしょう。それを抜いて施設へ帰るのも一つの選択です」と言う。緊急搬送先の病院にいつまでいられるわけではなくチューブを付けたままでは施設に帰れない。母の意思を尊重するなら選択肢は明らかだ。

かくて間もなく母はホームへ戻る。ソメイヨシノはほぼ散った。八重桜も盛りを過ぎた。風に舞う名残の花びらを見ながら「久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」という詞が胸に去来する。豪奢な花吹雪とは違う、ちらちら何処からともなく漂う花びらのようにあえなく頼りなく、だが微かな光として目の前に瞬く一片の命を見届けなくてはと思う。

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