ショート・ストーリー 01 

「ボタン」

May 11, 2024

By K. Kitada

近頃あの人はボタンで本を買う。静かなので何をやってるのかなと見に行くと、机の上にある画面をじっとのぞいて、あれこれ考えているようだ。映っている四角い本の絵がずりずり下がったり、またぞろぞろ上に戻ったり、三角の印につれて右へ行ったり左へ来たりするうちにあの人は「これかな」とつぶやいてボタンを押す。すると早くて次の日、遅くても4、5日目くらいにはお届けものの本が郵便受けに入っている。お金はいつ払うのだろう。

「信用買い」というものがあるらしい。「つけておく」という買い方も昔はあったようだ。そういう買い方をすると、その場で品物と引き換えにお金が消えていくのじゃなくて、品物が先にもらえて、お金は後からまとめて払えばいいらしい。あの人はノートに、「英語だと”By credit or by cash?”とメモしていた。「カードですか、現金ですか?」―海外旅行に行ったときに使えそうな言葉のようだ。でもいつまた外国に行くつもりなのだろう?

あの人がそこいらに旅行に行って家を空けると、二、三日のことなら私と相棒のはっかちゃんは犬猫病院のホテルに泊まる。十日以上になると、猫シッターさんが家にやってくる。初めての時は驚いた。毎日二回知らない人が来て、フードをくれたり、水を入れ替えたり、トイレの掃除もしてくれる。慣れるまでは嫌だったけれど、お腹がすくから仕方ない。はっかちゃんがのろのろ食べていると私はつい、横から茶碗に顔を突っ込んで手伝ってしまう。すると、シッターさんは「こらこら」と言って茶碗を取り上げ、別の場所ではっかちゃんに食べさせる。損した気分。その人はスマホであの人たちに、「今日もにっきちゃんがはっかちゃんのご飯を取りました。」なんてメッセージを送ってたらしい。旅行から帰ってきたあの人たちに「だめじゃない、にっきちゃん」と叱られたもの。だけど、猫の世は早食い競争。早くたくさん食べたもん勝ちよね。

あの人は自分がいない時、知らない人が家に入ってきても怖くないのかしら?「契約」なんて言ってるけれど、人間の世界では「信用」ってものが大切らしい。私たちがこの家にもらわれてくる前、あの人の家族がとてもお年寄りになって一人では食事もトイレも出来なくなったときに、ヘルパーさんたちが何人も入れ替わりでこの家に出入りして、助けてもらったと言っている。あの人もしょっちゅう仕事で家を空けていたので、お願いするしかなかったらしい。今でもその頃の癖が残ってるのかな?自分がいなくても誰かが代わってくれるでしょうなんて。だけど、残された方はどう感じるか、あの人はよく考えてるかどうか。誰もただで引き受けてくれるわけないから、やっぱりお金を払うんだわ。それも「信用」が無いとダメ。どうやって信用できるかどうか分かるのかしら?人間の勘ってもの?あの人が本を買う時も「信用ボタン」を押してるつもりなんでしょうね。

でも、この前あの人はもう少しで騙されるとこだった。あの人はコロナっていう病気に罹って、熱があった。静かに寝てればよいものを、また机の前に座って画面を睨んでた。あちこちボタンを押してると突然画面が凍り付いてしまった。あの人は抜け出そうとしてじたばたしてたけど、どうしようもなかった。その時、「この問題を解決するには、サポートデスクにすぐ電話して画面操作を行ってください」「勝手にリセットしないこと」っていうメッセージが出て、あの人はスマホを出して指示された番号に電話した。すると、外国の女の人の声が聴こえてきた。あの人は「サギじゃないの?」と疑ったんだけど、女の人の声には隙が無かった。あの人は女の人の声の指示に従ってズンズンと画面を切り替えながら、「変だ、変だぞ」と思い続けているようだった。

「あなたは本物のサポーターなの?」と聞くと、すぐに画面には写真付きの身分証明書が出てきて、「私の名前はマリア。アメリカ人です。これが社員証です。本当のサポーターです」という答え。でも、でも、どこか変だ…とあの人は思ってた。直感というのか、今まで出会ったことのあるアメリカ人の喋る日本語と似ていない、日米合弁企業の社員にしてはまったく余裕やサービス精神が感じられない、何かが違うと思った矢先、彼女に「最近、中国のハッカーが狙っています。もしかするとあなたのお金が盗まれているかもしれない。今すぐ預金の残高を調べてください。」と言われた。いくら熱のある状態でも、あの人はここまでくると絶対おかしい、ストップしようという頭が働いたらしい。「つまりそれって、インターネットバンキングにログインするってことでしょ?てことはここでIDやパスワードを入力するってこと?」と聞くと、女の人は「そうです」。あの人が「そんなことはできません」と言ったとたん、「ではこの電話は切ります。」

その後起こったことはというと、凍り付いた画面にそれまでのカラフルなページとは似ても似つかないテキストファイルが出てきて、「30分のカウンセリング。8万円送れ」と大きく書いてあった。あの人はすぐさまパソコンの電源ボタンを切った。「悪夢だ」とつぶやく声が聴こえた。

電話でお年寄りが「オレオレ詐欺」に会うことがニュースになっているのに、あの人は、自分は騙されないと思っている。電話ではね。でもパソコンのセキュリティーっていう面ではどうだったの?すごく甘かったでしょう。怪しいURLは絶対クリックしないという原則を守れなかったとしたら、敵の思う壺。翌朝、あの人はマルウィルスチェックに何時間もかけていた。自分自身はコロナウィルスに感染し、パソコンはマルウィルスに乗っ取られかけ、熱の下がる暇もなかった。人間の世界では、用心しないとどこで悪いものに引っ掛かるか分からない。それ、ワールドワイドウェブって言うんでしょ?人間の世界って蜘蛛の巣だらけってこと?あの人のボタンはとても怪しい。猫の世界の方がよっぽどきれいだわ。

そういえばあの人はこの前、近所の本屋に取り寄せを頼んだと家の人に言っていた。アルバイト店員が「少々お待ちいただけますか?一週間か10日で届くはずです」というので、「そんなに待つの?」と思ったけれど、お願いしたようだ。どうせ熱を出して寝ていたんだから、引き取りにも行けなかっただろうし、大した日数じゃないでしょう。やっと熱が引いたとき、あの人はどうなったかなと電話してみると、「まだのようですね。」さすがにそれはどうかと思い「じゃ、別の本屋をのぞいてみます。予約をキャンセルできますか?」と聞いてみた。(本当は、キャンセルは受け付けませんと受け取り票に書いてあったんだけどね。)そうしたら、店員さん慌てて「もう一回見てきます」と言ってバタバタした直後に「さっき届いてました!」というお返事。

「そんなんじゃネット書店に対抗できないわよ」という言葉をぐっと飲み、あの人は駅前の本屋に出かけて行った。元は三軒も本屋があったのに、たった一軒残ったこの店を潰しちゃいけないと言っている割に、あの人はよくボタンで本を買う。猫は積み上がった本の上で昼寝するのが好きだ。

 


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