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2 『福田村事件』を見て |
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『福田村事件』を見て 北田敬子 1952年に生まれた私にとって、第二次世界大戦は元より関東大震災も、日本の朝鮮・中国への政治的関与も歴史上の項目に過ぎない、と言えなくもない。だが、自分の成育歴を振り返ると、間接的にではあるにしても掘り下げるきっかけはいくつかあった。にもかかわらず何故、それらを避けるともなく避けてきたのかと、今自分に問うている。映画『福田村事件』を見たからである。 私の母は昭和3年 (1928年) に朝鮮の京城(現在のソウル)で生まれた。当時祖父は第一銀行の京城支店に勤めており、夫婦と子供三人の家族はその「外地」で暮らしていた。母には、幼児の頃家にオンドルがあったこと、朝鮮人の女中さんがいた記憶が残っていた。(認知症を患いグループホームに暮らす母に、今ではもう確かめるすべもない。)母が元気であちこちへ旅行していた頃、私は「韓国へ行って子供のころ住んでいた場所を訪ねてみたらどう?」と何気なく聞いたことがある。母はキッパリと「韓国へは行かない」と答えた。もっと強く「どうして?」と問い質してみればよかったと今では思う。 まだ健在だった祖父が、ふと漏らした言葉に私は驚いたことがある。「俺たちはあちらの人たちに酷いことをした。申し訳なかった」と言った。その時、「どんなことがあったの?何をしたの?」と私は祖父に聞いてみればよかったのに、立ち入れない領域があるのを感じて黙っていた。祖父母や両親に聞いてみたかったことはいくらもある。だが、問う術を持たなかった私は微かな機会をことごとく逃していたことを今にして思い出す。南方や中国大陸に学徒動員で送られた実父にも、軍属として中国大陸に渡り現地で覚えた中国語で通訳までしたという義父にも、問いかけることはできなかった。祖父や父たちの経験にはもしかすると非道なことが含まれていたかもしれないと、本能的に察知したからなのだろうか。義父の遺品の中に手垢にまみれた小さな中国語辞典があった。義父には家族へのモラハラに近い言動があったと義母から聴いたことがある。それが大陸での経験とつながっているかもしれないと私は憶測してみることもあった。 関東大震災に関しては父方の祖母から何度も聴いた話がある。墨田区の向島あたりに住んでいた祖母は大きな揺れと共に赤ん坊だった父を抱いて二階から外に飛び降りた。捕まった電信柱が左右に揺れ、十間川が波打って魚が通りに放り出されていたと。大勢が避難した被服廠跡はさほど遠いところではない。祖母にも当時の流言飛語の話を聞いてみればよかった。あの震災の中で祖母はどのように生き延びたのか、震災後の不穏な空気に動揺することはなかったのか。祖母存命中の私は迂闊な若者だった。 そんな頼りない認識を抱えて、私は映画『福田村事件』を見に行った。千葉県野田といえば、醤油生産で有名な土地だ。その間近の静かな田園の一隅にある村で虐殺事件は起きた。1923年9月1日の関東大震災発生から6日目に、村を訪れていた四国の行商人の一行総勢15人中9人が、村人たちに惨殺された。震災に動揺した人々は朝鮮人が災害に乗じて狼藉を働いているという風聞を流し、地元警護という名分のもと、各地で多くの朝鮮人が殺害された。その噂話は福田村にも及び、疑心暗鬼の人々は不安を、目の前に現れた「異邦人」である讃岐から来た行商人にぶつけた。曰く、言葉が違うからこの者たちは朝鮮人に違いないと。村人と行商人たちの間で緊張感が高まるうちに最初の一撃を振り下ろしたのは、赤ん坊を背負った若い女トミだった。倒れたのは行商団の頭目沼部新助。そこから始まる一方的な攻撃。暴徒と化した集団を止められる者はいない。男も女も子供も、妊婦でさえも、竹槍で突き刺され、刃を突き立てられ、猟銃で背中から撃たれ、野辺に川面に倒されていく。その集団的熱狂は留まるところを知らない。 駆けつけた野田署の巡査部長が、新助の差し出した「行商人鑑札」は本物だと宣言し、この人たちは日本人なのだと証言するに及んで、ようやく騒ぎは収まる。しかし収まらないのは行動を煽った自警団長の長谷川だ。このように振舞って村を、国を守れと命じたのは、警察でありお上であり国だろうと声を振り絞る。その後の経緯は字幕にて、検挙された騒動の主犯格らが投獄されたものの昭和天皇即位の恩赦で間もなく放免になったこと、事件は村の日常生活の奥底に埋められるようにして殆ど顧みられることが無かったと表記される。凄惨な虐殺シーンがこの映画のクライマックスであることは間違いない。しかし、そこに上り詰めていくまでに、村人たちの暮らし、戦争の残影、被差別部落から歩いてきた四国の行商人たちのあり様、現実と理想の間で煮え切らないインテリたちの苦悶、ジャーナリストたちの分裂、大正デモクラシーの実態、男と女の修羅、世代間の確執、子供や若者の無垢と純情などが幾重にも幾層にも描かれる。 利根川の穏やかな流れが全編を通じて幾度も映し出される。そこには渡し船の船頭 田中倉蔵がいて人や家畜や荷物を運ぶ。普段倉蔵は、村の女島村咲江を(彼女が戦争未亡人になる前から)惹きつけるアウトローな男として描かれている。川は長閑にたゆたい、倉蔵は咲江を、はたまた朝鮮から元教師の夫に伴われてこの地へ戻り、一人優雅に白いパラソルなど回している澤田静子をも相手にする。いわばエロスの現場である川は、その後に凶器を持った村人たちに追い詰められた人々を飲み込む虐殺現場ともなる。竹やりや農具で人が人を殺す様は、発砲よりよほど恐ろしい。土俗的と言ってもよい村のコミュニティーが周縁にいる者、外から来る者たちを怪しみ、糾弾し、排除しようとするエネルギーの凄まじさを、この映画は記録するような手際でとらえる。殺人事件の本当の犯人が誰なのか、ついに明示されることなく。 随所で問いかけがある。「取材したことを記事にしてはいけないのか?」「日本人でなければ殺してもいいのか?」「あなたはまた黙って見ているだけなの?」と。現代に生きる観客の胸にもストレートに響く問いだ。もしこの映画を観ていたら、私は祖父母や父母に先の問いを投げかけられただろうか。私が最も関心を持ったのは井浦新が演じる澤田智一だった。彼は四年前、朝鮮で「提岩里事件」の現場にいて憲兵隊に命じられるまま、通訳として29人の独立運動の闘士と目される人々を教会に招じ入れ、彼らが惨殺され教会に火が放たれるところに立ち会った。以来、何も感じることができなくなっている。彼の台詞「日本人は朝鮮語を学ぶ必要はなかった。朝鮮人に強制的に日本語を喋らせるから。でも俺は朝鮮語を学んだ。彼らの国で暮らす以上学ぶべきだと思った」は胸に刺さる。言葉を学ぶだけでは如何に無力であることか。 森達也監督がこの集団的熱狂と差別の原理を掘り下げる作品を、エンタテイメントとして市場に送り出すという覚悟に意表を突かれつつ、映画は観客を得てこそ成り立つ芸術であることを痛感する。
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