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4. 『オッペンハイマー』を見て

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『オッペンハイマー』を見て

北田敬子

この映画に「正しい見方」といものがあるだろうか?3時間に及ぶ上映時間、世界最初の原爆実験に向けて鎬を削る科学者、政治家、技術者、軍人、ロスアラモスの実験場、爆発と閃光、そして爆弾投下、色を失った世界、そこから始まる冷戦、レッド・パージ、名誉失墜と回復への延々と続く議論…。映画のタイトルOPPENHEIMERに託されたものは何か。その分厚いテキストとしての映像は一度見ただけで明解なメッセージを観客に伝え得るのか。おそらく、殆どの観客は目覚ましく移り変わるカットと大音響、そして尽きることのない「言葉・言葉・言葉」に追いかけられて、オッペンハイマーその人が突き付けられた苦悩と混乱と、彼の上り詰めた栄光の一端を追体験することにはなる。映画はそのように作られている。だが、そこから導き出される「核兵器を持った人間世界の一人として」ここからどう生きて行けばよいのかという問いには誰しもたじろぐばかりだろう。それはオッペンハイマー自身の戸惑いと諦観を、観客一人一人が生きるよう託されていることに他ならない―そのように私は今感じている。

そんな重たいテーマの映画がよくぞオスカー7部門を総なめにし、アメリカ映画ビジネスの頂点に立ったものだと思う。アメリカで封切られた2023年夏の段階では、同時公開の『バービー』と興行成績の一位を争い、バービーの髪の毛をキノコ雲とだぶらせた画像で「バーベンハイマー」などという造語まで生み出して、被爆国日本からの厳重抗議に謝罪するという一幕まであった。そのことは人々の記憶から消えていないはずだ。だが、オスカー争奪戦では『オッペンハイマー』の圧勝で、『バービー』に殆ど付け入る隙はなかった。戦争と殺戮を主題とする極めてハードな作品が人形や少女に集約されるソフトな作品を吹き飛ばしたともいえる。そもそも最初から勝負にならないだろうという声はどこからでも聞こえそうだ。だが、本当にそうなのだろうか?

歴史の記録として、少なくとも第二次世界大戦中アメリカはどのように戦っていたのかを、内側から鋭くえぐり出すという手法は冴え冴えとしている。そのコアの部分にいたオッペンハイマーへの集中は揺るがない。ユダヤ系アメリカ人という彼の出自が現在進行中のイスラエル対ハマス(パレスチナ)の戦争をいやがおうにも思い出させる構造は、絵空事ではない戦争のリアルを現代社会に突き付けてくる。映画の中で二度、オッペンハイマーはアインシュタインと邂逅する。プリンストン高等研究所の所長という科学者としては並ぶもののない栄誉に包まれながら、どちらにも上り詰めた満足感もなければ奢りもない(ように見える)。祖国ドイツを捨てて亡命したアインシュタインと、祖国アメリカのために核兵器を実現させたオッペンハイマー。作ったら使わざるを得ない人間の性と、その先への研究を戒める科学者と。この映画はその宿縁を明示しつつも物理学者の研究成果を「糾弾」することや、彼らに罪をかぶせることが本意でないのは歴然としている。

それでは原爆投下は時代の要請による「必然」だったのだろうか?アメリカ人の多くが第二次世界大戦(実際には日本軍の抵抗を剥奪することで)を終結させる決定打になった、アメリカ人兵士の犠牲を食い止めたと信じている―と言われている。しかし、それは真実だったのか、原子爆弾を投下しなくてもすでに日本軍の力は尽きていたと分析されている。その見方は映画の中でも明確だ。だからこそ、終戦間近になって爆弾を落とす都市を悠長に選択する場面が登場する。候補の一つだった京都は「平時に妻と旅した楽しい思い出の地で、良い時を過ごした」などというセリフと共に、あの美しい場所を破壊するには及ばないと結論付けられる。それなら広島や長崎は破壊してもよいのか?!という憤怒の声が日本人から上がることを想像できなかったわけがない。だが、当時のアメリカ人には想像力が足りなかった。破壊される街の痛みのみならず、放射能による生命全般への加害の実態というものを予測する力も。

おそらく日本人には、そして当時日本に深く関わっていた国々の人々には、世代を超えて原爆に対する特別な思いがあるだろう。戦後に生まれた私でさえ、「被爆」という歴史を全く知らずに育ったとは言い難い。高校生時代に、私はアメリカから来た若者たちのグループとバスで広島へ旅行した。50人ばかりいた彼らは全員がクリスチャンだった。行きのバスの中でははしゃぎまわっていた彼らが、平和祈念館の中で観たものにどれほど衝撃を受けたか、驚くべきものがあった。少女たちの殆どが泣いていた。少年たちも黙り込んでいた。「知らなかった」ことが何よりのショックだった様子。少女の一人が、大切にしていた聖書を私にくれた。今でも私はそれを本棚に収めてある。互いに十分ことの重要性を理解していたとは言い難かったけれど。

また、1997年頃、家族でVirginiaに滞在していた時、Washington D.C.に旅行したことがある。「原爆展」を開催中のスミソニアン博物館を訪ねたら、“Little Boy”(広島に投下されたもの)や“Fat Man”(長崎に投下されたもの)の模型が展示されるばかりで、被災地に関する実情を示すものは何もなかった。元軍人たちの強い意向でアメリカ側オンリーの展示方法になったとのことを知ってアメリカとはそういう国かと思った。『オッペンハイマー』でも被災地への慮りや被害状況を含まないことに疑問の声が上がっていると聞く。おそらく映画制作者の意図は「マンハッタン計画」「トリニティー実験」「赤狩り」といったアメリカ内部の描写から核兵器誕生前後の顛末をつぶさに描くことにあるのだろう。いまだにそういう形でないとこの問題をアメリカ国内では表現できないのが実情なのか。僅かに被爆者のように見える少女の画像と踏みしだかれる炭化した物体に象徴的な放射能の痕跡を観ることができる。だが、あまりにも曖昧だ。

オッペンハイマー個人の浮き沈みの物語は興味深いものの、物理学者の使命と責任という観点からはアメリカの研究機関や大学の果たす役目を垣間見ることとなり、今後の課題としてことはより重大なのではないかと感じる。次から次に出てくる綺羅星のごとき20世紀の学者たち。彼らがとことん突き詰めて研究したことがオッペンハイマーの中で核兵器製造に昇華され、大量殺戮に寄与した。アメリカは日本一国に勝利するためというより、(すでに失われていた)ナチスドイツを筆頭に、とりわけ対ソ戦略としてそれを持たずにはいられなかった。冷戦の中で培われた核兵器による「核抑止力」という幻想が、水爆開発抑制に舵を切ったとしても、更なる新奇な兵器開発を止められずにいる一触即発の今日の状況をどうするのか。

オッペンハイマーのそばにいた女性たちの描写が今一つ不明瞭だった。この映画に女や子供がいないわけではない。だが誰一人、何ひとつ深いところで彼の動揺や迷いに影響力を持つことが無かったとしたら、悲劇はそこにもある。バービー的要素が、もっとオッペンハイマーを揺さぶる世界を創造しなくてはと私は感じる。

【註】『バービー』については別稿「ピンクの牙城」をご参照ください。

監督: Christopher Nolan
主演: Cillian Murphy

2024年4月17日鑑賞

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