SHORT ESSAYS
映画レビュー |
5. 『コット、はじまりの夏』を見て |
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『コット、はじまりの夏』を見て これは実に寡黙な作品である。母が出産を控えるひと夏、9歳の娘コットは遠縁のアイリンとショーン・キンセラ夫妻に預けられる。コットはそれまでの雑駁な生活とは違う穏やかに整った環境をまじまじと見つめ、おずおずと農場の暮らしに溶け込んでいく。やがてコットはキンセラ夫妻には肥溜めに落ちて死んだ息子がいたことを知る。コットはショーンが牛舎で「勝手に俺の傍から離れるな」と厳しく命じる訳を理解する。ショーンに牧場の外れの郵便箱まで走って手紙を取ってくる仕事を与えられたコットの表情は、それまでの固さから自由の楽しさを知る豊かなものへと変化していく。長い髪をなびかせて走るコットの姿は例えようもなく清々しい。やがて夏の終わりに自宅に戻るまで大きな事件も事故もない。だがなんという香しい時間がこの映画には流れていることだろう。 キンセラ夫妻には、コットが息子の「取り換えっこ」のように感じられたかもしれない。コットにしてみれば子沢山の自宅ではまともに顧みられることもなく、学校でも疎外感を抱き続けていた自分を無条件に受け入れてくれる夫妻のもとで初めて安心を得る。その幸福なマッチングが物語の総てだと言える。牧場で子牛に粉ミルクを瓶から与えるのを手伝う場面でコットは「なぜ子牛に母牛のお乳を飲ませないの?人間の子に粉ミルクをやればいい」と主張する。考える力があるにもかかわらず、コットは偏屈な子だと思われていた。だがショーンは「何も言わなくていい。人間はしゃべりすぎることで大切なことを逃す」とコットに諭す。 コットにはいたいけなさと共に凛とした佇まいがある。おねしょをして身をすくませる頼りなさの反面、牛舎の床をモップで洗う時の逞しさ。彼女の表情も全身も実に美しい。それは無垢なものにしかない輝きだ。人々がゲール語(アイルランドの第一公用語)で語り合っていることを観客は意識し続けるだろうか。おそらく、それが何語かということよりも、コットの声の儚げでありながら確かに人の心に届く響きに魅了されるはずだ。画面下には英語の字幕、右上には日本語の字幕。国外の観客に原語は全く分からない。 舞台は1981年、未だアイルランド紛争が続いていた時期だ。但しこの映画に闘いの気配はない。コットの父のすさんだ様子、産児制限のない国で次から次に子を産まざるを得ない母の疲れた様子、姉たちの卑屈な態度には未だ豊かではなかったアイルランドの国情も垣間見える。だが、この作品は抵抗や反逆の物語ではない。妖精の国のメルヘンでもない。今、この時代に、このような心洗う一編の映画がアイルランドで創られたことを記憶にとどめておきたい。激しさでも奇想でもなく、静けさの中に人の心を魅了する表現が可能であることの一つの証。それがこの映画の価値ではなかろうか。 2024年「アイルランド映画祭」にて6月12日に鑑賞 「コット、はじまりの夏」 The Quiet Girl(原題:An Cailín Ciúin) 北田敬子 2024年6月22日 (改訂) 改訂前の長い原稿(参考)
「コット、はじまりの夏」を見て 北田敬子 今日、この時代に、このような映画があるのだろうかという驚きと喜びをもって私は「コット、はじまりの夏」を鑑賞した。多弁な解説はそぐわない。とてもシンプルな物語を素直に追いかけるうち、観る者はいつしか9歳の少女コットと彼女を取り巻く人たちが生きている世界に吸い込まれて行く。雑念を寄せ付けないこの映画がどのように成り立っているのか、私は未だに不思議な気持ちでいる。 95分の上映時間中、私は画面から一瞬も目が離せなかった。一つにはこれがゲール語(アイルランド語)の映画だったことが大きい。100%ゲール語というわけではなく、随所に英語の台詞も混じる。主にコットの父親が吐き出すようにつぶやくと、周りの人々が応えざるを得ない場面の英語。それ以外はゲール語(アイルランドの第一公用語)で貫かれている。これまで何本かのアイルランド映画を観た経験はあるものの、ゲール語がこれほど堂々と主旋律を奏でるものは初めてだ。ゲール語話者でない観客のために英語の字幕が画面の下に横文字で付く。そして、英語話者でもない観客のためには画面右上に縦書きで日本語の字幕が付く。英語の字幕を読むより日本語を読むほうが早いから、私は日本語訳を読んだ。でもたまに、きっと原語により近いのではないかという思いで英語のスーパーも追いかけた。かくて、登場人物の動きと両方の字幕を追いかけるのに精いっぱいで画面から気をそらす余裕は与えられなかった次第だ。 さらに、この映画は実に寡黙な作品である。大筋は(たとえ字幕を全部辿れなかったとしても理解できるほどに)コットとほんの数人の動きと表情で理解できると言っても過言ではないほど、平明な物語の展開で出来ている。出産を控えたコットの母は、ひと夏この娘を遠縁の親戚夫婦に預ける決心をする。父親がコットを車で3時間ほどのその家へ送り届ける。コットはキンセラ夫妻(アイリンとショーン)に迎え入れられ、食卓で向かい合い、清潔なベッドに寝かしつけられ、アイリンに教わりながら料理の手伝いをし、田舎の牧場暮らしを始める。それまでの雑駁な生活とは違う丁寧に整えられた環境をコットの大きな瞳はまじまじと見つめ、最初はおずおずと、次第に生き生きと新鮮な暮らしに溶け込んでいく。近所で起きた通夜や葬儀に加わることで、自宅では経験したことのない人の死に出会い、コットは衝撃を受ける。だが、さらに大きな驚きが訪れるのは隣人の一人からキンセラ夫妻には息子がいたこと、その子は不慮の事故で亡くなったことを聞いたときだ。いつも優しく世話してくれるアイリンの涙に接し、妻をいたわるショーンの慈悲に満ちた振舞を見て、コットは汽車の模様が付いた寝室の壁紙のかつての持ち主の存在を実感することになる。心無い隣人が少年は肥溜めに落ちておぼれ死んだと言ったのを聞いて初めて、コットはショーンが牛舎で「勝手に俺の傍から離れるな」と命じた時の厳しさの訳を知る。ショーンはコットに郵便箱まで走っていって手紙を取ってくる仕事を与えた。軽快に走るコットの表情はそれまでの固さから解き放たれて自由の楽しさを知る豊かなものへと変化していく。やがて夏の終わりに自宅では男の子が生まれ、学校の始まりに間に合うよう帰宅するようにという母からの手紙が来る。コットはキンセラ夫妻の車で自宅に送り届けられる。だが、そこで夢のようなひと夏の物語が終わるのかどうか、幕切れはオープンだ。(あえて最後の場面を書くことは躊躇われる。)大きな事件も事故もなにひとつない。だがなんという清らかで香しい時間がこの映画には刻まれていることだろう! むろん上記のような梗概を辿っただけではこの作品の真価を言い表すことはできない。キンセラ夫妻には、突如現れたコットが失った息子の「取り換えっこ」のように感じられたかもしれない。コットにしてみれば子沢山の自宅ではまともに顧みられることもなく、ゲール語をうまく読めずに辛い思いをする学校での「いじめられっ子で一人ぼっちのはぐれ者」として疎外感を抱き続けていた自分を無条件に受け入れ、愛しんでくれるキンセラ夫妻の家庭に来て、初めて居心地の良さを感じて安心することができた。その幸福で幸運なマッチングが物語の総てと言えるかもしれない。父親がコットを送り届けただけで荷物を車に積んだまま帰ってしまったために、着替えもなく、最初は男の子のズボンとシャツで過ごすコットに、街で9歳の少女に相応しいワンピースが買い与えられる場面は、アイリンの誇らしそうな顔、コットの恥じらいながらも嬉しそうな顔の両方が輝く。牧場で子牛に粉ミルクを瓶から与える場面では、コットが素朴に「どうして子牛に母牛のお乳を飲ませないの?人間の子に粉ミルクをやればいい」と主張する姿に、この子が心の中では色々なことを考える力があるにもかかわらず、それまで誰も彼女の言葉に取り合わなかったがゆえに、言葉を持たない子なのではないかとすら思われていた状況が透けて見える。但し、ショーンは一貫して多弁を排し、「何も言わなくていい。人間はしゃべりすぎることで大切なことを逃す。」と言う。要するに、最初からほぼ最後まで続くコットの思いつめたようなまなざし、見開かれる眼とわずかにゆがむ口元、細い手足の動きとなびく長い髪、それだけでも必要十分なコットの心情描写が行われる。カメラワークの巧みさ(そしてその巧みさを感じさせないような自然さ)が言葉を補って余りある。 9歳と言えば小学3年生。まだまだ幼い。預けられたコットを見てアイリンは密かに「かわいそうに。私の子だったら他所になんか預けないのに」と呟く。だが、この少女にはいたいけなさと共に凛とした佇まいがある。おねしょをして身をすくませる頼りなさの反面、少しでも役に立とうと牛舎の床をモップで洗う時の逞しさも同居している。彼女の表情も全身も長い髪と共に実に美しい。それは成熟した女性の美しさとは無縁の、無垢なものにしかない輝きとでも言った美しさだ。映画の観客はコットの美しさの虜になる。彼女やキンセラ夫妻がゲール語で語り合っていることを観客は意識し続けているだろうか。おそらく、それが何語かということよりも、コットの声の儚げでありながら確かに人の心に届く響きに魅了されるはずだ。その調べは音楽に近いかもしれない。 アイリンの歌うアイルランド民謡が僅かに国柄を伝えているところはある。舞台は1981年という。未だアイルランド紛争が続いていた時期だ。但しこの映画に闘いの気配はない。コットの父のすさんだ様子から彼の不如意と出口の見えない社会の実情がにじみ出てはいる。産児制限のない国で次から次に子を産まざるを得ないコットの母の疲れた様子や姉たちの卑屈な態度から未だ豊かではなかったアイルランドの国情も垣間見える。だが、この作品は抵抗や反逆の物語ではない。妖精の国のメルヘンでもない。放置していれば確実に消えて行く民族の言語(しかし伝統ある文化をはぐくんだ言語)を当たり前に話す人々の居ることを、同時に慎ましい生活を丁寧に大切にする人々の居ることを記憶させる媒体としてこの映画は作られたのかもしれない。そこではコットという少女のかけがえのない美しさが存分に描かれる。今、この時代に、心洗う一編の映画がアイルランドで創られたことを記憶にとどめておきたい。激しさでも奇想でもスピードでもなく、寡黙で穏やかなしぐさの中に人を魅了する表現が可能であることの一つの証。それがこの映画の価値ではなかろうか。原題The Quiet Girlの含蓄の深さを思う。 2024年6月21日 ★★★★★ |
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