「窓越しの対話」――インターネットでことばを磨く――

<2> 機械と人間

機械操作と人間同士の精神的交流は、相容れない別物のように見えるかも知れない。実際に使い始めるまで、この二つのイメージの融和は不可解に思えて当然だ。だが一旦使い慣れると、機械の方が表現を促す事態が出来する。それは道具が手に馴染むことと似ている。

メールの特徴の一つは、単刀直入に用件に入れることにある。ビジネスメールの場合は特にこれが有効に働く。瞬時に特定多数の相手へ「同報メール」を送れることや、送信メール・受信メール・返信メールなど、適宜仕訳するファイルに整理できることに加え、ものの介在を省けることで、メッセージそのものを相手に送るという主要な目的以外のところに費やす時間とエネルギーが不要になる。郵便物の場合、文書自体に様々な意味が付加されているから、文書送付手続きの一切にまつわる様式を遵守する必要がある。ところが、日本語固有の挨拶や前置き抜きでは何も始められない手紙文とは逆に、メールは婉曲を嫌う。肝心なのは用件の簡潔な伝達だ。スピーディーなやり取りが可能なのにわざわざそれを潰すのは無駄なことだと、交信者同士は了解し合える。

勿論いいことずくめではない。私的メールでもビジネスメールでも、この「単刀直入さ」が時として実際上の個人間の距離を見誤らせることがある。メールのことばは、障害物無しにストレートに相手に飛び込む。そのために本来なら越境できない私的なゾーンへの侵入が起こりやすいし、あり得ない親密さが存在するかのような錯覚を人に抱かせかねない。また批判や非難は、強烈に胸に刺さる。ことばだけの交信は時として、相手に対する感情増幅装置の役目を果たす場合もある。不用意に発したことばが瞬時に相手に届くことが、取り返しの付かない状況を生む原因にもなりうる。

対話がスムーズに行われればこれほど便利なコミュニケーション手段はないけれども、齟齬が生じたとき、この至便な書きことばの対話では、誤解や諍いを解消するのにかなりのエネルギーを要する。解消されずに断絶する可能性も高い。サイバースペースでこの断絶を経験すると、虚空に放り出されたような孤独感を味わうことがある。直接会うこともなくサイバースペースの中でだけ交信していた場合など、この孤立感はかつて無かった種類のものだろう。消失した相手が実在したのかどうかもあやふやになるとしたら、私たちは文字通り不条理と直面せざるを得ない。文字だけで相手の存在を認識し、文体にアイデンティティーを見出し、交信の事実に相手との繋がりを感じて、そこに何某かの人間的交流の充足を得ていた場合などは、更に厄介なことになる。断絶はこちら側の存在を抹消されたかのような感覚をもたらし、自己に対する否定的な感情を生みかねない。相手が無言であることに苛立ちを募らせれば、一方的な発信を続けていつしかネットストーカーへと変貌する可能性も十分にあり得る。逆の立場にいれば、昨日までの友好的交信相手が自分を脅かす存在となる。沈黙して関係終了とはゆかずに、やむなくアドレス変更を強いられる場合もある。論争ならまだしも、言葉尻を捕らえあっての泥仕合にエスカレートし、「たかがメール」のために時間とエネルギーを消耗して疲れ果てるなどという例も稀ではない。

ホームページでの情報公開にも同様な面がつきまとう。発信者と受信者が互恵状態にあるときは時空を越えた緊密な繋がりや、情報源としての信頼感を保てる一方で、いずれかにとって不利になる情報が行き交えば、これもまた危険領域となる。ホームページがたやすく誹謗中傷の場と化し、犯罪の温床になることはよく知られている。情報公開(発信)の自由は個人領域への侵入を外界に許し、不本意な攻撃の的になり得る危険性と紙一重だ。また、発信の内容・スタイルいかんで、逆にホームページの主催者側が期せずして加害者となる場合もある。これまで出版・放送などの既成メディアだけが担っていた言論者の責任を一般の個人も、発信者の立場になることで引き受けなくてはならない。それらのリスクに対する備え無しにウェッブ(World Wide Web)上へ乗り出していくとしたら、トラブルを自ら招くことになりかねない。条件さえ整えば子どもでもサイトの主催者になれるサイバースペースは、良くも悪くも何が起こるか分からない「場」だということを認識する必要があるだろう。

それではメールにせよホームページにせよ、そのような危険を冒してまで個人情報の幾ばくかを公開し、発信、交信することの意義はどこに見いだせるのだろうか。既に深く生活の中に入り込んだこのサイバースペースでの「対話」が引き起こす悲喜劇を、「仮想現実」と斥けることはできない。それは私たちに様々な心的作用を及ぼし、判断を迫り、行動を促してくるのだから。実益が無く面白くもないものであれば、インターネットによる情報交換がこれほど広がるわけがない。デメリットを遙かに勝るメリットがあればこそ、人々はデジタルコミュニケーションに深く身を浸してゆく。「独り言」に生命を吹き込むものは何だろう。


ページトップに戻る
次のページ/<3>へ
前のページ/<1>へ
「対話の窓」扉へ
Back to Home