「窓越しの対話」――インターネットでことばを磨く――

<5> ウェッブサイトの誘惑

メールが主に個人間の交信方法であるなら、ウェッブは一挙に多数の人々が行き交う開放性を特徴とする。企業や団体が宣伝活動の一環として、また顧客サポート・サービスの一環としてウェッブサイトを開設するのは当たり前になった。(「ウェッブサイト」は「ホームページ」と同義に用いる。この後は主に「サイト」と表記する。)サイト作成を業務にするビジネスも勿論あるけれど、多くの場合サイト作成ソフトを使えば、パソコン操作の基礎的技術を持っている人なら誰でも手軽にサイトは構築できる。WWWが広まった初期の頃、ネットサーフィンを楽しむだけだった個人も、今や気軽にサイトが持てる。サイトを開くにはウェッブに繋がったサーバに場所を確保する必要があるけれど、バナー広告を組み込むことを条件に無料でそのスペースを提供するプロバイダーが多数存在するので、インターネットに接続したパソコンが利用できるなら金銭的にもサイト開設を阻むものはない。サーバの使用料を払う人にはバナー広告の出ないスペースが提供される。個人で独自ドメインネームを取得しサーバを立てて、容量制限を気にせずサイトを構築することもできる。

企業等のサイトの場合、その目的も機能もはっきりしている。また専門、特殊領域の資料収集や情報公開を目的とするアーカイヴの果たす役割も明瞭だ。だが個人サイトには、必ずしも特定の情報提供を目的としないものが多々ある。公開するコンテンツが、開設者個人の趣味であり身辺雑記である場合、そのサイトは誰に向かって何を発信しようとしているのだろうか。

個人サイトはデジタル情報交信時代が可能にした一つの存在証明の形態だと思われる。人は物言う権利を持っている。ロンドン・ハイドパークの「スピーカーズコーナー」に立って演説する自由があるのと同様に、WWWというスペースの中で誰でも発言することが許されている状態は、書きことばにも殆ど無制限の自由が与えられた最初の機会ではないだろうか。従来のように同人誌、個人新聞、ミニコミ誌、自費出版など、紙に印刷して配布するという形に拘らなくても、個人が複数の人々を相手に意思表明(マニフェスト)を行うことを可能にしたのが、ウェッブ上のサイトだと言ってもいい。もしも印刷紙の持つ手応えに重きを置くなら、サイトは手に触れぬ架空の存在であるような不確かさは否めない。もしも何らかの事情で電力供給が途絶えればそれは存在しないのと同じだし、コンピュータを使わない人に見て貰うことは出来ない。(当然のことながら企業や団体の宣伝・サービスサイトも同様の限界を持つ。)それでも個人サイトは増殖の一途を辿っている。書きことばによる発言の自由、文字と画像、更に音声を介しての自己表現の可能性への期待が、人々の間を席巻しているのは否定しようもない。

サイトなど持たなくても発言したければ、メールで複数の相手にメッセージを送ることで目的を達成できるのではないかと考える向きがあるかも知れない。メールマガジンや、メーリングリストは確実に加入者への情報伝達機能を果たす点で、サイトに勝る点があるのは事実だ。しかし、視覚的にデザインセンスを発揮する余地があり、幾度でも更新することが可能で、多機能を同時に備えるという点でサイトに及ぶものではないし、情報掲載の容量の多さでは比較にもならない。そして更に最も肝心な点は、他者にアクセスするかどうかの選択権が委ねられているということに尽きる。

送りつけられたものを歓迎する人も確かにいるだろう。専門性の高いメーリングリストで国境を越えた議論が活発に繰り広げられている例を挙げるまでもない。だがそれがさしあたって直ぐに必要な情報でないと判断されればゴミ箱行きか、任意のフォルダーに収納され、運が良ければいつか開かれることもある程度の不確実な情報伝達が行われたに過ぎない。受け手は容赦なく情報を選別する。ところがサイトは「送られる」情報ではなく、そこに「在る」情報だ。情報の「受け手=読み手」は自ら操作を行って情報に辿り着く。サイトへのアクセスは情報探索者の積極的な行為と言える。書き手の「独り言」に生命を吹き込むのは、「読み手」に他ならない。


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