風のたより
風につづるしかなかった手紙 あなただけは読んで
雪で作るしかなかった形見 あなただけは抱いて
記された文だけがこの世に残っていく
形有るものだけがすべてを語っていく
叫べども あがけども だれがそれを知るだろう
だれも だれも だれも「伝説」 中島みゆき
一人で音楽に浸っていたいときがあります。ポップな英語の歌でも良いし、壮麗なヨーロッパの管弦楽でも良いし、イージーリスニングの出来る環境音楽でも構いません。でもどうしても日本語の歌を聴いていたいときがあります。日本語の歌詞だけが心の琴線に響き、悲しみを癒し、苦しみを和らげてくれるように感じられることが時々あるように思います。心が高揚しているときにも、沈み込んでいるときにも、いらいらしているときにもことばとメロディーが一つに解け合ってこちらの心の中にしみわたってくるように感じられることがあるのです。
わたしにとっては、特に自分と同世代、同性の中島みゆきの歌にそのような浄化作用があります。一人の歌い手を好きな人もいるでしょうし嫌いな人もいるでしょうし、全く知らないし関心のない人もいるでしょう。わたしは自分の印象や感想を他の人に押しつけるつもりはありません。ただ、この様にわたしが感じたことを少しばかり書いてみようと思います。それは上の歌詞にもあるとおり、風につづる手紙のような物になるでしょう。記された文というほど確かな物ではありません。
電子媒体上のことばなど、ちょっとした事故や故障で一瞬のうちに霧散します。だれにも読まれずに消えていく物が殆どでしょうし、仮に読まれることがあったとしても記憶に残ることはごく希でしょう。それでも構いません。元々書くという行為は誰かに伝える以前に、自分に向かって語りかけることであるように思うからです。そう考えると、「風につづるしかなかった手紙」というのはとても潔い書き方であり、書くことの本質を突いているように思えてなりません。
上の歌詞は叶わぬ恋の歌と読むのが普通でしょうけれども、前半よりむしろ後半に味わい深いものがあります。「だれが<それ>を知るだろう」と問いかけているところで、<それ>とは何のことだろうと首を傾げたくなります。「叫ぶこと」、「あがくこと」でしょうか。何を叫び、何をあがくのかも不思議です。「恋」だとか「愛」だとかの概念を当てはめて「激しい片思い」と結論づけるのはちょっと早計ではないかな、と思います。「わたし」というものの総体をこの世に残すことの困難、あるいは不可能をある時愕然と思って、自己の存在証明を託す物のあり得ないことを悲しんでいる、いえむしろ、最後で繰り返される反語への当然の答、「だれも」というはっきりとした認識を示している詩として読めないでしょうか。
「恋」も「愛」も成就する場合より、未然に終わる場合の方が人に多くのことばを語らせます。人はすれ違うように出来ているのではないかと思いたくなるほど、出会いは別れに繋がります。そもそも「恋」や「愛」に成就というゴールがあると思うことの方がおかしいようです。人が人に抱く思いはいつでもどこでもたいていアンバランスです。だからこそ人は書くことでバランスを何とか保とうとするのではないでしょうか。相手に押しつけるためにではなくて、自分を落ち着かせるために。自分で自分の悲しみや苦しみの始末をするために。そしてその悲しみや苦しみが決して無意味な物ではなかったと信じるために。「だれも」わたしの思いを知ることはないし、私もまただれの思いも本当に十分には受け止められないかも知れないことを、この歌を聴くごとに感じます。
ただ、「伝説」というこの詩には虚無感より諦観の方が色濃く、伝わらない思いをこの世に留める方法はないのだけれども、それでも思うことを止められはしない、人は物思う存在だと表明しているよう感じられます。だからこそこの歌を聴くと「風につづるしかなかった手紙」をつづることが尊い行為として浮かび上がってきます。だれのためでもなく、自分のために尊いのです。「あなた」と呼びかけられている人は勿論変化自在です。卑小な者にも崇高な者にも、如何様にも姿を変えます。ふと、この歌を聴く自分へのメッセージかも知れないと思えることもあります。とても抽象性の高い詩ではないでしょうか。
はやり歌として聞き流すのも自由ですし、重苦しくわかりにくい歌詞だと敬遠するのも勝手です。でも、きっとこの詩と同じような立場に身を置くことになれば、深く心に響く詩となるはずです。
わたしがこの歌を聴いていたとき心に浮かんだのは、それならわたしも風に手紙をつづろうという思いでした。誰かに宛てて書くというより、風につづってたまたまどこかに届くのもよし、吹き散らされて消えていくのもよし、書きたいときに書こう、という気持ちです。苦笑しながらこうも思います。人は幾つになっても、どんな立場にいても、何をしていてもたいして変わらない、と。偉そうな顔をしていても心はいつも風にふるえる木の葉同然だ、と。そのふるえを別のことばでは「感受性」と言うのかも知れません。一つだけ確かなのは、比較的最近よく聴くようになった中島みゆきの歌によって、長らく休眠状態だったふるえがわたしの心に戻ってきたということです。そのことを恥じてはいません。喜んでいます。
ふるえによって呼び起こされる「思い」はしかし、やはり「風につづるしかない」ことも確かです。
May 25, 1998