風のたより
2. 風の姿
だから
風の姿を誰か教えて
愛の姿を誰か教えて
数えきれない数の定義じゃなくて
たった一人の愛の言葉で
私をうなずかせて中島みゆき 「風の姿」
定義で愛をねじ伏せることは不可能です。風と同じようにそれは姿を持ちません。だから、理屈ではなくて何の端数も出ないことばが欲しい、とこの詩は歌っています。愛の嵐が来る前の不穏な雰囲気がメロディーには充満しています。この詩はもし英語にでもなおして見れば、「命令文」で出来ていることが歴然とするでしょう。哀願であってもそれは「命令」に他なりません。何の権利があって、「教えて」と、誰に向かって歌い手は命じているのでしょう。「誰か」とは特定の人ではなくて、虚空に手を延べる行為に付き物の、「誰でもあり誰でもない」人に他なりません。「たった一人」の人が発する「愛の言葉」が欲しいのだけれど、半端なことばではとても納得できません。「私をうなずかせる」に足る愛の言葉をこの歌い手は求めています。これはとてもささやかだけれどもとてつもなく大それた望みといえましょう。少なくともこの歌い手は「愛している」といった常套句が欲しいのではないのですから。
もしかすると男より女の方がいつもことばを求めているのかも知れません。ことばに出来ないことの方が多いのに、女はいつもことばを要求して男をたじろがせます。しかも生半可なことばでは満足せずに、幾度も幾度も「言ってちょうだい」と迫ります。「あれを買って。これが欲しいの。」と言われるより、余程難題ではないでしょうか。モノは虚しい。金は虚しい。しかしことばも虚しい。虚しくないものなど無いのに、それでもまだことばが欲しい。何故女はそんなにもことばを求めているのでしょう。
本当は女は人のことばを当てにしているのではないのかも知れません。自分の心の中の虚実取り混ぜた感情のうねりに敏感で意識的な女なら、尚更「口約束」ほどの愛の言葉など初めから誰にも期待してはいないでしょう。だから、女は風に向かって語りかけます。世界中の女たちが、一人で風の中に立ち、心の歌を歌っているところを私は想像します。満たされているように見える優雅な女たちも、無一文の裸足の女たちも変わりません。飽食している女たちも、飢餓に苦しむ女たちも、子どもにまとわりつかれて身動きならない女たちも、胸に抱くものが何一つ無い女たちも、みんな一人で風の中に立つことがあるのではないでしょうか。女たちが求めているのが、風がどこかから運んでくるたった一つの愛の言葉であり、それを発するたった一人の人間なのだとしても、その「たった一つ、たった一人」というのはなかなかに手に入れがたいものです。手に入れたと思ってもいつまた消えてしまうか知れません。幾度でも女は風の中に立ちます。そのうちに風との語らいを覚えるのです。たとえ今は満足できる愛のことばが無くとも、探し続け、待ち続け、いつか自分がその愛のことばの語り手になることを予感しつつ。
本当は一つではない愛のことば。一つではない愛の形。「一つ、一人」と願い定めることで女は自分を納得させ、満足させようとします。(その一つ、一人がいかにも困難であれば尚のこと、そう言わずにはいられません。)けれども「一つ、一人」に縛り付けてはおけないほど溢れる愛を女は元々孕んでいます。さもなければいかにして女は何人もの子供を産み育て、家族を養い、周囲の人々と協調して生きていけるでしょうか。産もうが産むまいがそれも大した違いではありません。私は女の中にあふれ出すものがあるのを感じます。それは女の強さであり弱さでもあります。女はいつでも愛を感じるし、愛を求めます。一つではない愛の形、愛のことばを。まるで風のようにとらえどころのないものを。この歌の厳しい要求は、本当は女が自分の情の深さを鎮めるために自分に向かって発してるいるように聞こえてなりません。