初出 田崎清忠主催 Writers Studios 2024年 10月4日 |
散策思索 39 「 晩夏の旅―青森から函館へ」 |
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散策思索39 「 晩夏の旅―青森から函館へ」 北田敬子 夏の終わりに旅をした。青森から函館へという二泊三日の旅である。千葉から行く夫婦(フミエさんとヤスオさん)、その友人女性(ユキコさん)、そして東京からの私の四人組で。私以外の二人の女性は大学時代の同級生。彼女たちが函館での同窓会に出席するので、「一緒に北海道に行ってみない?」と誘われた。ユキコさんは青森市在住で今回の目的地周辺の地理や事情に詳しい。彼女が案内役を引き受けてくれた。 猛暑の東京を離れられるだけでもありがたい。どんなところへ行くのだろう。LINEでフミエさんが転送してくれたユキコさん作成の旅程表を握りしめ、私は次第に色濃くなってゆく森林を車窓から見つめていた。新青森駅で東北新幹線「はやぶさ」を降りるとユキコさんが待ち構えていた。早速レンタカーを借りに行く。車と縁のない生活をしている私にとっては、レンタカーでの旅も初体験。会社のカウンターに貼り出された「熊が出没するため八甲田山へは入山禁止となっています」という注意書きに驚いた。出るのだ、クマが! レンタカーはユキコさんがナビ役を務め、ヤスオさんが運転した。初対面のユキコさんは「ことばがおかしいでしょ」と挨拶してくれた。私が「いえ、義理の両親は(青森県の)三戸出身だったから懐かしいです」と答えると、「でもね、南部と津軽の言葉はまた違うのよ」との返事。なるほど、イントネーションも語彙もネイティブスピーカーにしか分からない差があるわけだ。ユキコさんの流麗な津軽弁は「フランス語みたいっていわれるのよ」と解説されれば、確かにそんな気がしてくる。青森駅前海岸に到着すると、海浜にねぶた祭りの山車を展示する「ねぶたの家 ワ・ラッセ」があり、波止場には青函連絡船「八甲田丸」が係留されていた。トンネルができる前は、連絡船で4時間かけて函館へ行ったものだと二人は楽しそうに語り合っていた。「津軽海峡はどんなでした?」と聞くと、「最初は珍しくてデッキで海を見てたけど、慣れてくるともう船室でお菓子食べて寝てたよね」と笑う。演歌的悲壮感は微塵もなかった。洞爺丸事故(1954年)から70年。その頃彼女たちはまだ生まれてもいなかった。 車は弘前城の脇を通り、コスモス咲き乱れる街道沿いに岩木山の雄姿を仰ぎながら、岩木山神社へと走った。他に殆ど参拝者もない静かな境内の石畳を踏んで本殿に参拝する。誰彼の安寧を祈った後、私は携えてきた御朱印帳に刻印してもらった。その晩は投宿したホテルで温泉につかり、夕食後に津軽三味線の演奏を聴きに行ったものの、不覚にも私は居眠りしてしまった。早起きがたたったようだ。 翌朝はあらためて宿の屋上から岩木山を拝んだ。それから車で「世界文化遺産『北海道・北東北の縄文遺跡群』特別史跡三内丸山遺跡」へ。広大な敷地に縄文時代のムラが復元されている。ひときわ目を引く三層にも及ぶ大型掘立柱建物や、大小さまざまな掘立柱建物・竪穴建物など、中には全体が草に覆われるに任せたものも含め、古代人の住居が風に吹かれている。ヒトはこんな場所で営々と暮らしていたのか。眩しい陽を浴びながら、一行はしばしこのタイムトラベルにひたった。 新青森駅でレンタカーを返して、いよいよ北海道新幹線で函館へ向かう。トンネルを抜けた先は「新函館北斗駅」だった。私は北海道の玄関口が北斗市であることを十分に理解していなかった。近年函館市の人口は減少を続け、北斗市が新幹線の駅である利便性を活かして人口増加及び発展を続けているとのこと。新幹線の駅誘致競争が熾烈を極める理由が明らかだ。おまけに「ニシンも鮭も果ては名産のイカも捕れなくなって、函館の漁業は大変です」と新函館北斗駅から乗った観光タクシーの運転手氏が嘆く。 タクシーで向かった先はトラピスト修道院。車を降りて、ポプラ並木の坂道を上り詰めた先では閉ざされた門扉が観光客の行く手を阻む。そこには"MONASTERIUM BEATE MARIA VIRGINUS DE PHARO"「灯台の聖母トラピスト修道院」の文字。幕末に開国の基地となった函館には軍人や商人だけでなく宣教師たちも多数訪れたが故に、教会関連の施設がいくつも存在している。俗人たる我らはせめて修道院の前庭で、北海道随一の味を誇るソフトクリームを賞味するばかりだった。 その後市内の旅館で荷を解き、五稜郭タワーまで行って私たちは二手に分かれた。同窓会組はレストランへ。残り二名はタワーの展望台へ。星形の要塞はデンマークのコペンハーゲンで見たKASTELLETによく似ている。函館には次第に夕闇が迫り、タワーから全方向に見渡せる街にポツポツと明かりがともり始める。すっかり暗くなった頃、同窓会を終えた二人と合流して、いよいよ函館山へ。名高い夜景を頂上から眺めるのが旅のハイライトだ。「宝石箱をひっくり返したような」という常套句に嘘はない豪奢な夜景を前に、二人が言うことには「イカ釣り漁船の漁火が見えないね。」「たった四艘しか残ってないって言うんだから。」「前はこんなじゃなかったよね。」「もっと光ってたわ。湾一杯に拡がって。」 三日目の朝は市電で元町へ行き、坂の街を散策した。異国情緒あふれる街並みの主役はここでも教会だった。函館ハリストス正教会、カトリック元町教会、函館聖ヨハネ教会等。だが、私が一番心惹かれたのはその日の午後に観光タクシーが連れて行ってくれた函館山の麓、大森浜の見張らせる一隅にある石川啄木一族の墓だった。27歳の時東京で没した啄木の「僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいように思う」という手紙の一節が墓碑に刻まれている。墓のすぐ先にある「立待岬」から津軽海峡を見渡すと、函館と青森県の下北半島はほんの目と鼻の先だ。しかし、この海峡が隔てていたものは限りなく遠かったのだろう。 晩夏に函館の街を訪れただけでは北海道の何を観たと言えるだろう。旅の最後に行った「厳律シトー会 天使の聖母トラピスチヌ修道院」ではその瀟洒な建物を外から眺めることしか許されなかった。気まぐれな旅行者にエキゾチズム以上のものが見えるはずがないとでも言うかのように。聖母マリアが両手を広げる、高台になった修道院の前庭から、遥かに海峡のきらめきが望めた。修道女たちは作務の手を休めて海を眺めることがあるのだろうか。聖地を観光地にして踏み込んでくる旅行客をどの様な思いで見るのだろう。 楽しい「オトナの修学旅行」だった。けれども、羽田に向かう飛行機の窓から遠ざかる海や青い森を見下ろす私は、いつしか一人で異国を旅する者の心を抱えていることに気が付いた。 【参考】ギャラリー(写真ページ) |
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