「窓越しの対話」――インターネットでことばを磨く――

<7> 匿名の世界

個人ホームページの開設者や、チャットルーム、掲示板、描画コーナーなどに集う人々は、確かに人間の存在を求め、自身の存在をアピールしたいという欲求を持つ一方、用心深く身元を隠そうとする。一定の主張を公表したり、利益のために自己宣伝することを目的とする場合は別として、一般にネット上で実名や所属先などを明らかにするのは「危険」なこととして忌避される。個人情報の不用意な流出が思いがけない災いをもたらす可能性に人々は敏感だ。ネットショッピングのような必要不可欠の場合を除いて、サイバーワールドだけで通用する「ハンドルネーム」という匿名を人々は用意する。一つとは限らないハンドルネームを使い分けてネットを渡り歩くうちに匿名がリアリティーを持ち始め、ネットの中で別人格を形成している感覚を持つことさえ可能になってくる。

この匿名性の容認が、ネット上のコミュニケーションを特徴付ける。主に書きことばでしか自己表現の許されない段階でのデジタルコミュニケーションでは、年齢・性別・容姿・社会的ステータス・しゃべり方など、日常生活の中を付いて回る個人の「細部」が捨象され、不問に伏される。いくら発言の際に個人情報の幾ばくかを開示するよう要請されたとしても、虚偽の申告が誰にも咎められることがないとすれば、「斯くある私」より「斯くありたい私」をハンドルネームと共に持ち歩く自由が保障される。サイバースペースにはその結果、通常の社会生活では満たされない思いが渦巻くこととなる。多様な社会規範から解放されることが、サイバースペース最大の魅力の一つでなくてなんだろう。

年齢・性別を偽って書き込みをするのなど容易いこと。書かれたことを読み手が額面通り受け取るか否か、判定基準がない以上全ては個人に委ねられている。ある意味で、サイバースペースは虚構と真実がいくらでも入れ替わり立ち替わり現れては消える、泡沫の芝居小屋のような「場」だと心得ていた方が正しいのかも知れない。ウェッブ上の特定サイトには信頼に足る情報が蓄積されていく一方で、恣意的な「素振り」が横行する場所も無数にあることは否定の仕様もない。そのような胡散臭さは気楽さでもある。それこそが人の望む解放空間であるとしたら、インターネットはありとあらゆる人間の欲望が創り出した世界ではないだろうか。騙すこともあれば騙されることもあり、その駆け引きにはリスクと快感が伴う。「匿名性」は通常の社会生活にあるような自己引責を回避する便法だ。だからこそ「匿名」を排し、実名での関わりを求めるサイトには独自のサイト開設趣旨がある。多数の人々が作り上げた巨大なサイトも独力で作られた小さなサイトも平等にサイバースペースには散在している。情報を提供し交流の場を用意する側も、それらを享受する側も、自らの嗜好で如何様にもサイトを利用することができる。そのいずれと、どのように関わろうと、また各々の「場」でどのように振る舞おうと自由だけれども、その結果を引き受けるのはサイバースペースに参加する個人となる。「匿名」の隠れ蓑には越えることの出来ない淵があることを了解した上で饗宴に参加するなら、咎め立てする機構は今のところどこにもない。


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