徒歩記 3

東京の水流
玉川上水を中心に

 

 

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■ 玉川上水とは

玉川上水は江戸に多摩川の水を引き入れるために掘られた人工水路である。徳川幕府は当初から江戸の上水道建設に積極的だったようで、先ず家康の命によって「小石川上水」が、ついで「神田上水」が敷かれた。参勤交代の制度が出来る三代将軍家光の頃には、人口15万人を越える大都市になっていた江戸にそれだけでは水の供給は間に合わず、多摩川を水源とする水路が構想された。このとき設計書を提出し工事請負人として任命されたのが庄右衛門・清右衛門の兄弟。さまざまな困難はあったものの、承応2年(1653)に僅か8ヶ月の工期で開削を成し遂げたことにより、二人は「玉川」姓を許されたとのことである。

「(多摩川中流の)羽村から四谷大木戸まで約43km、標高差は92mの緩勾配である。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する自然流下方式による導水路である」と東京都水道局の紹介にある通り、広大な関東平野西部を貫いて流れは都心に至る。途中で玉川上水はいくつもの分水路に水を供給してきた。資料に依れば野火止用水を筆頭に拝島、砂川、小川、国分寺、小金井、田無、境、品川、北沢各分水、それに青山、三田、千川の三上水にも分水されていたことがある。明治維新以後、一度は混乱に乗じて舟運が許可されたこともあったが水質汚染は避けがたくそれは二年で禁止された。末端の木樋で汚水が混入することを避けるため、「浄水場で原水を沈殿、ろ過し、鉄管を使用して加圧給水する近代水道の建設」が急務となり淀橋浄水場への新水路が代田橋付近から建設されたのが明治31(1898)年。以降、肥大化する都市の水不足解消のため利根川水系からの導水が行われるようになるまで、玉川上水は多摩川と淀橋浄水所を結ぶ現役水路であり続けた。(以上、東京都水道局発行「玉川上水の歴史」より引用および抜粋要約。)

東京の西郊に住むものにとってこの「玉川兄弟」の名は馴染み深い。子どもの頃から私も「タマガワキョウダイ」のことは聞いていた。しかし、当時多摩川と玉川上水の詳しい関係は知らなかった。昭和30年代の初めに隅田川の東岸「向島」から三鷹市下連雀に移り住んで、近所を流れる玉川上水の「激流」はただただ恐ろしいものだった。鉄条網越しに川岸の深い草むらからのぞくと水は目にもとまらぬ早さでゴウゴウと流れ下り、時たまむらさき橋の欄干から見下ろす川は、もしや間違って落ちたら命はないと子ども心に確信できた。船も通らず、魚釣りも出来ず、ましてや川遊びなどもってのほかの奇妙な川だと思っていた。「土左衛門」ということばを知ったのもこの頃。おそらく太宰治の入水自殺からまだ10年経っていなかったのではないかと思う。

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