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徒歩記 1 「本郷菊坂路地めぐり」
        The Amazing Maze
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それから私は坂をぶらぶら一番下まで下りた。下りきったところが「言問い通り」で、これを北西の方角に上れば西片町。漱石ゆかりの町に至る。そのはずれには一葉終焉の地もあるはずだが、そちらへ足を伸ばすとまた奥深い街路に踏み込むことになる。今日のところは菊坂だけにしておこうと、ほんの少しだけ行ったところで目にとまった細い坂道を右に上る。地図は携えていたけれど細い道をいちいち確かめることはせず、おおよその見当をつけて心引かれる方へ歩く散策だ。そのかなり急傾斜の坂の途中から、崖上にかけて建つ旅館は窓という窓が開け放たれ、どの窓にも布団が干してある。登り切ったところで「太栄館」という看板が目に入った。玄関脇には石碑と立て札がある。近づいてみるとこれは「石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡」なのだった。

石碑には啄木の歌作中もっとも有名なものの一つ、「東海の小島の磯の白砂に/我泣きぬれて蟹とたわむる」が刻まれており、立て札の方には啄木が明治41年(1908)、近隣の「赤心館」での下宿代を滞らせ、金田一京助の援助で蓋平館三階三畳半の間に入ったとある。旧弓町(現本郷2-38-9)の「喜の床」に転居するまでの9ヶ月間ここにいたとのこと。上記の歌はこの時代のものだと言い、かつ次の詩句も紹介されている。

父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に

(明治41年9月14日作・蓋平館で)

一葉の典雅な文語調に比べ、20年後の啄木の言葉はぐっと口語に近い。共に赤貧洗うがごとき文筆家だったとはいえ、時代は急速に進み菊坂界隈にもその波は押し寄せていたことだろう。

そこここの角を気ままに曲がりながら、私は旧台町(だいまち・「赤心館跡」がある)を通り、篠竹のうっそうと覆い被さる徳田秋声宅(都史跡)のある旧森川町を経て、再び菊坂に出た。日傘の下ですら目も眩む炎天に、ようやくこの付近の地理が体で感じ取れるようになっていた。帰り道にはまた炭団坂を上ることにした。

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