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カズオ・イシグロの
『クララとお日さま』
が問いかけるもの

 

 

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これは、2025年2月14日に東洋学園大学「ことばを考える会」より出版された、シリーズ『ことばのスペクトル システムと多様性』(鼎書房)所収の一編をウェブ版として公開するものです。

カズオ・イシグロの「クララとお日さま」が問いかけるもの

北田敬子

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2. 捨てられたクララ

 広い「廃品置き場」に、多種多様な品物と一緒に少女の姿をした人工知能搭載のロボットが打ち捨てられている。空から鳥の一群が舞い降りてきても、食べるものが何もないと知るとすぐに飛び去ってしまうような場所である。ロボットは首を回して辺りを観察することはできても、自分で別の場所へ移動することはできない。

 その人型のロボットにはまだ意識が残っている。物事の認識能力もひところよりはスローになっているものの、消えてしまったわけでもない。つまり完全な「廃品」ではないにもかかわらず、ヒトから不要だと見做されて、家具や家電製品と同様に放置されている。クララは依然として個別の特性を備えた人造物として「存在」しているにもかかわらず、である。こんな情景を前にしたら読者は何を思うだろう。

 カズオ・イシグロの小説『クララとお日さま』の最後のシーンは不可解な余韻に満ちている。例えば少年少女の人工親友(Artificial Friend)として作製され販売された、この人工知能搭載ロボットのクララと同じ年頃(十代半ば)の読者は最後のシーンにどう反応するのか興味深い。年齢は別にしても、クララに一定の親近感を抱きながら小説を読み続けてきた読者なら、平静を保って本を閉じるとは思えない。むしろ「こんな終わり方をしていいのか?」という疑問や一抹の不安を抱くはずだ。何故か?おそらく、クララとその持ち主だった少女ジョジーの間にあったはずの「親しみの情」などというものは幻想だったのかという失望、あるいは所詮ロボットはモノに過ぎなかったのかというやるせなさ、さらには結局ヒトとモノの境界を超えるものは提示されないのかという不満、などの混沌と交じり合う読後感を持たざるを得ないからなのではないだろうか。

 しかし、カズオ・イシグロがそんな読者の反応を予測しないわけがない。作家は意図的にこの場面を最後に設定したはずである。とするなら、クララに託されたものを推測することが読者への問いかけなのかもしれない。少女の形をとった人工頭脳が体現するものは何か、何故それは少女の形でなくてはならないのか。近い将来、現実に登場するかもしれない「ヒトの友達として作られるロボット(AF)」と我々はどう向き合い、付き合っていくことが可能なのか、この小説は読者にシミュレーションの機会を提供すると言えるだろう。そのように考えると、クララの最後を哀れと思う必要もない。そもそも悲喜劇はAI(Artificial Intelligence)―人工知能―なりAFなるものに感情移入する人間のほうに起こる。外見からも機能からもヒトと対等(か、それ以上)であるように造られながら、消費されてしまうクララとはいったい何者なのだろう。

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