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Klara and the Sun

 

カズオ・イシグロの
『クララとお日さま』
が問いかけるもの

 

 

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これは、2025年2月14日に東洋学園大学「ことばを考える会」より出版された、シリーズ『ことばのスペクトル システムと多様性』(鼎書房)所収の一編をウェブ版として公開するものです。

カズオ・イシグロの「クララとお日さま」が問いかけるもの

北田敬子

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5. クララとお日さま

 前述の通りこの小説の語り手はクララである。クララの観察、認知、判断、行動などがクララの言語表現能力の範囲で記述される。したがって小説のナレーションの総てはクララという受信装置を通して理解・把握されたことだけである。ある意味で読者はクララと一体になって世界を見ることになる。クララから見た人間界や周囲の自然環境、クララの持ちえた感覚と感受性、そしてそれらに対する疑問や驚嘆など、通常の人間には常識以前のことがらも新たな学びの対象となって立ち現れる。それ故に、常識的な大人の読者から見たら笑止千万なこともまことしやかに語られることとなる。その筆頭がクララの「お日さま信仰」だろう。

 AFを動かしているエネルギー源は太陽光である。クララはどんなに人間界に馴染んでもヒトと共に飲み食いはしない。ベッドに横になって眠ることもない。求められなければ冷蔵庫の脇や部屋の隅に立っていて、モノとしての分際をわきまえている。五感のうち味覚と嗅覚は備わっておらず、触覚に関してはごくわずかな描写から「あるにはある」と判定するしかない。例えば爽やかな風、クリシーやジョジーに抱きしめられた時の幸福感など。だが、知覚に関していえば極めて単純で未発達な状態と思わせられる。クリシーに連れられてモーガンの滝見物へ行く途上見かけた雄牛に「怒りと破壊のサイン」を認め、「この雄牛は重大な誤りだ」(p.145)と断じる様子。逆に草原の草を食むだけの羊たちには「親切心と思いやり」が満たされていると判断する様子など、観察と結論の短絡は否めない。

 だが、「わたしにも感情があると思います」とクララは主張し、「多くを観察するほど、感情も多くなります。(中略)さっきもジョジーが一緒に来られず、悲しみを感じました」(p.142)とクリシーに説明する。このあえかな感情表明は見逃せない。クララの行動の動機となる機能を果たし、ヒトに寄り添う契機を成すものと考えられるからである。

 そのようなナイーヴな感性のクララが、ことお日さまに関しては確信的で大胆なことは全編を貫くミステリーを成していると言えよう。クララは太陽エネルギーが自分の存在基盤であることを実感している。たまたま店に展示されている時目にした、ホームレスと犬が路上で息絶えたかに思えた後、太陽光を浴びて復活したと思しき場面を目撃して感激し、太陽には生命を蘇らせる力があると信じ込む。そしてそれは病弱なジョジーにも有効だと考え、太陽にジョジーの健康回復を祈願する。但し、リックに「AFの迷信」と揶揄されることもあるように、筋道だった説明は避け続ける。途中で口外したらお日さまの機嫌を損ね、満願が叶わなくなるかもしれないというのがその理由である。

 クララはジョジーの部屋の窓から日没の場面を観察し、草原の中に建つマクベイン氏所有の納屋に太陽は休息所を持っていると考える。沈む寸前の太陽光を納屋の中でとらえ、ジョジーの回復祈願をすることがクララの使命となり、彼女が重篤になった時の祈りの場面は、AFという科学技術の粋を極めた存在の対極にある原始宗教の絵図のようであると言わざるを得ない。この極端な結びつきをどう解釈すればよいだろうか。AFを太陽の申し子と描くイシグロの設定には、現代人のエコロジー信奉への疑義の片鱗がありそうだ。

 

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